土谷さんメール新聞     第1号
                       2000年1月12日発行
みなさん、明けましておめでとうございます。
 全国の土谷さんのルーツを探求しようと行動を開始してから約1年半が経過
しました。この間に、調査の範囲は広がる一方ですが、それぞれをつなぐ
糸はまだまだ見えてきません。少しずつ集まってくる資料を整理しながら、
あれこれと推理したり想像したりしながら続けています。今年は、このメール
新聞の発行を通じて、これまでの調査内容を自分なりに少しづつまとめて
いこうと考えています。
 1998年夏に大分県豊後高田市にお住まいの土谷朋夫さん(87歳)から、
ご先祖から伝えられる150点ほどの古文書が大分県立歴史博物館に寄託され
ました。昨年夏には学芸員のかたによりその整理を終え、今年春に発行される
予定の博物館紀要に目録が掲載されることになっています。その文書の中には
地域の歴史を紐解く上で大切な情報も含まれておりますが、土谷のルーツを
探る上でも貴重な資料が多く含まれています。正式に発行されましたら、
内容についてみなさんにお知らせしたいと思います。
 大分県西国東地方は全国の土谷さん4700余軒のうち、その5%もの家が
集まる地域です。しかも国内の他の地域と異なり、近隣に「土屋」姓が全く
見られないという特別な地域でもあります。どのような歴史があって、この
ような状況が生まれたのかについて、大変に興味を持っております。
 西国東地方の調査から始めたのですが、いくつかの文書や言い伝えの中に、
平安時代末期か鎌倉時代初期の関東地方にそのルーツがあったと示す情報が
残っており、この関東方面の調査を手がける中で、全国に散らばる土谷さんは、
かつては同じルーツだったのではなかっただろうかという気持ちを強く持つ
ようになってきました。そうした調査の広がりをインターネットという環境を
利用していく中で、全国の土谷さんたちと少しづつ協力しあいながら作業を
進めることができないだろうかと考えて、できるところから始めて見ることに
しました。どうぞ暖かいご支援をお願いいたします。

【大久保長安(1545〜1613)】
 今年のNHKの大河ドラマは徳川3代を1年を通じて放映するようですが、
この土谷さんメール新聞の第1号は、その関連の話題を提供しようと思います。
 講談社発行の「世界人名辞書、日本編」などによると、大久保長安は甲斐の
国の出とされ、猿楽師の今春喜然の息子として生まれ、父親の姓を受けて
大蔵十兵衛と名乗っていたそうですが、武田信玄に認められ士籍を得、
「土谷」という姓を名乗ることを許されたそうです。武田信玄の死後、徳川
家康に認められ、小田原の大久保忠鄰に仕えることとなり、始めは猿楽師と
して仕えていたようですが、山師を統率する才能を認められ、伊豆金山、
佐渡金山、石見銀山、などの開発を任され徳川幕府の初代金山奉行に任命
されるまでになりました。また、大久保という名字を名乗ることを許され、
大久保長安として知られることになり、最後は武蔵の八王子城主として晩年を
過ごしました。彼の死後、その不正蓄財などが発覚し、その息子が切腹させ
られたり、かつての主君であった大久保忠鄰もお家断絶などの厳しい処分を
受けています。大久保長安事件として知られる歴史的事件だそうです。長安は
西国の毛利家とも親交が深く、海外貿易なども行なっていたようで、死後に
見つかった文書の中には海外からの文書などもあったそうです。また、キリシ
タンでもあったようで、その関係の文書もあったようです。彼の一族は猿楽師
としての顔と共に、武田信玄の時代に大菩薩峠近くの黒川金山の開発にも
携わる山師の頭領としての顔を持ち、さらに諜者としての面も持ち合わせて
いたと伝える資料もあります。徳川家康により大久保忠鄰に預けられたのも
伊豆金山との関連が伺えます。
 詳しく調べると興味の尽きない人物だと思いますが、私は武田信玄から
授かった土谷という姓に興味を持ちました。この時代、相模から発祥した
土屋姓は関東に多く、源頼朝の時代から名門の家柄でしたが、土谷という姓に
ついては記録に出てきません。武田信玄の家臣にも土屋右衛門昌次など
二十四将の一人に上げられるほどの武将がおり、多くの土屋姓の家臣がおり
ました。山梨県だけでなく、武田信玄の勢力が及んだ長野県や群馬県にも
土屋姓の古い資料などがたくさん残っております。しかし、土谷姓についての
資料は皆無と言っていいほど見つかりません。
 長野県北佐久郡軽井沢町には、鎌倉時代から続く土屋さんがおられます。
そのうち33代になるという一軒の土屋さんの過去誌には、初代の名前と
して「土谷小太郎義忠」という名前が記され、宝性寺という寺に残る、高さが
1メートルほどもある大きな位牌にもその名前が記されているそうです。
また、そこから直線距離で20キロほど南東に群馬県甘楽郡下仁田町青倉と
いう場所があり、そこには土谷沢という地名が残っています。その沢の奥の
桑本という場所には今でも20数軒の土谷さんがひっそりと集落を成して
います。これらの地域はかつて武田信玄の勢力範囲にあったところでも
あります。こうしたところから土谷のルーツが見つからないかと考え始めて
います。

【土屋と土谷】
 いくつかの地域では、土屋姓から土谷姓に変わったことを示す資料が残る
ところもあります。また、軽井沢のように江戸時代明暦年間に17代目の
当主が土谷姓を土屋姓に変えた例もあります。
 「つちや」と読む姓は、調舎、槌屋、槌家、槌谷、槌舎、槌矢、鎚谷、挺屋、
土屋、土家、土谷、土舎、土矢、土八、土尾、土也、土弥、土揶、坡屋、
土(右上に点があるもの)屋、などが丹羽基二さんという系図学者の本に
紹介されています。実は、土谷にも土の字に点があるものが大分県で認めら
れるのですが、この本には載っていませんでした。ということは、この他
にも採取されていない「つちや」という苗字があるかも知れません。
 また「土谷」と書く姓の読みでは、「つちや」の他に「つちたに」、
「どや」、が確認できていますが、他にも異なる読み方があるかもしれ
ません。あまり手を広げてもますます混乱するだけなので、今のところは
漢字で「土谷」と書く姓だけを調べ、必要に応じてその周辺の資料も集める
といったスタンスで進めています。
 土屋姓については、20年以上前に、京都にお住まいだった土屋政一さんと
いうかたが非常に精力的に調査を進められ、「土屋氏族の系譜」「土屋一族の
歴史(前・後編」という本にまとめられました。この3冊の本は大変に内容の
濃いもので、土谷さんのルーツを探していこうとする私にとって大変に参考に
なるものです。軽井沢の土谷小太郎義忠の件に関してはこの書物を読んでいく
中でその存在を知りました。しかし、土谷姓についての記述はその箇所以外
には全くなく、しかも土屋と土谷を混同している箇所が見つかり、少し残念な
気もしました。
 一つは、大久保長安に関してです。「土屋一族の歴史・後編」の中に、
大久保長安について書かれている箇所があるのですが、そこには「元は土屋」
と紹介されていました。これに関しては、人名辞書の記述の根拠となった
元資料を確認するまでは何とも言えない点でもありますが。
 また、江戸時代の著名な土屋さんとして、土屋温斎という幕末の和算学者を
紹介しているのですが、大分県真玉町大岩屋出身の彼は、土谷温斎であって
土屋ではありません。この大岩屋という地域は土屋姓が全く見られない西国東
地方にあっても特に土谷の本家があったとされる地域であり、こうした混同は
少し残念であると共に、いつか体系的に土谷姓のルーツについてまとめて
いく中でこうした点を正していくことができればと思っています。
 といった感じでとりとめもない話題を紹介してしまいましたが、1月9日に
放送されたNHK大河ドラマの関ケ原の戦い。あのオープニング画面の中に、
「大久保忠鄰」という登場人物の名前を見つけることができました。という
ことは大久保長安も登場するかも知れません。

【付録リンク】
土谷さん年表:これまでの調査で集まった資料を少し整理してみました。
  http://tsuchiya.com/data/nenpyo.html
土谷小太郎義忠(軽井沢町)関連の資料画像
  http://tsuchiya.com/zenkoku/sinbun/kotaro.html
土谷又四郎による送状(天正18年:1590/土谷朋夫さん宅の
  古文書より)
 先祖が相模の国から船で来たこと、上ノ関に立ち寄ったことなどが
 書かれています。
  http://tsuchiya.com/zenkoku/sinbun/sojo.html

【次回予告】
 第2号では、全国の土谷という地名について、書いてみる予定です。

 土谷さんについての情報、どんなに小さなものでも構いませんので、
みなさんからもぜひお寄せください。

2000.1.12 土谷重幸

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土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com  http://www.tsuchiya.com/