土谷さんメール新聞     第3号
                     2000年3月18日発行
(1) 家紋について
 以下、家紋についての簡単な説明を引用します。
家紋の発生は、いまから約900年ほど前の平安時代後期ころにさかのぼれる
ようだ。公家の西園寺家の紋は「巴」だが、実季のときに牛車の紋様として
定めたことが古記録に残っている。その牛車の紋様が、所持品、家財道具、
その他にも多用されるようになった。やがて、このしきたりが貴族の間に
広まりだし、家紋となっていったという。
 この印は、鎌倉時代になると武士の間にもっと実用的な意味で用いられた。
戦場にあっては敵味方を識別することは急務である。それで武士はこぞって
のぼりや旗に家の印を付け、その存在を明かにさせた。これを「旗紋」と
いう。さらに上級武士は陣幕にもその印を付けた。「幕紋」である。
 武家の紋は優美な公家の紋に比べ、戦場ですぐ描け、敵味方にも遠く
から見分けがつく実用的な印が多かった。島津氏の「十字」。足利氏の
「二つ引両」など簡単なものの方が都合がよかったのだろう。
 しかし、江戸時代になると。幕紋、旗紋というのは有名無実に近くなり、
ただ家の印をあらわす「家紋」のみが栄えたようだ。
 (家紋World(http://www.harimaya.com/kamon/)より引用:
     田中豊茂さん製作)

 全国の土谷さんの家紋については、その種類は多岐に渡るようで、その
多さに比べて、これまでの調査は十分とは言えず、今後の調査によっては
まだまだいろんなことがわかってくると思われます。
 全国の分布を見ると、いくつかの紋について離れた地域で同じ紋が見ら
れるというのがありますが、それらがつながりがあるのかないのかに
ついては何もわかりません。
 
■「三つ巴(みつどもえ)」【巴(ともえ)】
 ◆山梨県、兵庫県神戸市、大分県真玉町、大分県三重町
 大分県におけるこの紋については、土谷姓の主流ではなく、
別の系統の土谷姓の家が使っています。また、使用している家は
少ないようです。他の県についての詳細はわかりません。しかし、
関東、関西、九州で同じ紋が見られることについて、興味が
わきます。

■「丸に違い鷹の羽(まるにちがいたかのは)」【鷹(たか)】
 ◆群馬県下仁田町(明治時代に北海道へ移住)、岡山県津山市、
  山口県田布施町、大分県真玉町、香々地町、三重町
 大分県の土谷さんの紋としては、2番目に多い紋(推定)です。
鷹の羽紋は特に西日本の武家が好んで使った紋だそうで、4大家紋の
一つに数えられています。

■「梅鉢(うめばち)」【梅鉢(うめばち)】
 ◆兵庫県川西市、大分県豊後高田市、真玉町、国東町
 大分県内の土谷さんで最も多く使われている紋だと推定されます。
その変形も多く、これまでに確認できているだけでも6種類に
のぼります。兵庫県川西市では「つちたに」さんがこの紋を使っておられ、
ご先祖は京都から来られたそうです。

■「橘/立花(たちばな)」【橘(たちばな)】
 ◆石川県金沢市、長崎県福島町
 金沢市に創建500年という「土谷山敬栄寺」という寺があります。
この寺の住職の家と親戚関係にある土谷さんがあり、古くは土屋姓を
名乗っていたそうです。住職の家の姓は「橘」さん。この土谷さんと橘さん
とは共に「橘」紋を使っているそうです。
 長崎県福島町では、土谷(つちや)、土谷(どや)、土屋(どや)、と
いう3種類の姓が見られ、家紋はそれぞれ、「丸に花剣菱」、「橘」、
「?(不明)」をお使いです。土屋(どや)さんは、土谷(どや)さんから
分家したそうです。石川県と長崎県、海上を移動すれば、比較的近いよう
にも思えます。

■「丸に花剣菱(まるにはなけんびし)」【菱(ひし)】
 ◆長崎県郷ノ浦町(壱岐)、福島町
 上でも解説しましたが、福島町の土谷(つちや)さんがこの紋を
お使いです。福島町の土谷(つちや)さんによると、先祖は佐賀県
有田にあった岸岳(岸嶽)城の城主の波多氏に使えていたそうですが、
朝鮮征伐の際に九州に来ていた豊臣秀吉が、波多氏の妻に横恋慕し、
あらぬ疑いをでっち上げ城を攻め滅ぼしたという事件があったそうです。
その際、土谷さんの先祖は、今の福島町、壱岐、対馬、などに逃げ延びた
ということでした。壱岐の土谷さんもかつて家老だったという言い伝えを
持っているということで、この話と符合しますし、同じ家紋をお使いと
いうことからも裏づけられそうです。郷土史の本などによると、この
岸岳城の波多氏が攻められた事件は実話のようです。ただ、この時期の
波多氏の家臣の名前の一部などが記録に残っていますが、少なくとも
家老などの高い地位には土谷姓は見られないようです。もう少し詳しく
調べてみる必要がありそうです。

■「九曜(くよう)」【曜(よう)】
 ◆秋田県本荘市、秋田県十文字町
 十文字町には土谷姓が40数軒、土屋姓が20軒近くあります。
この土屋姓は土谷姓から分かれたとされているようですが、はっきり
した記録はないそうです。鎌倉時代初期に相模で発生した土屋姓の子孫の
家にこの「九曜」紋を使う家が多く、土屋姓とのつながりを感じさせます。
十文字町の土谷さんは、古い時代に岩手県側から移ってきたという言い
伝えがあるそうです。

■「三つ鱗(みつうろこ)」【鱗(うろこ)】
 ◆秋田県東成瀬村
 15軒ほどの土谷さんがおられる地域ですが、土屋姓は一軒もあり
ません。この「三つ鱗」紋は、平家の子孫に使われることが多い紋
です。電話でのお話では、関東の三浦氏と関係があったような話も
聞いたことがあるそうです。

■「中輪に木瓜(なかわにもっこう)」【木瓜(もっこう)】
 ◆群馬県下仁田町青倉
 北海道のかたで先祖が明治時代にこの地から移住されたかたが
「丸に違い鷹の羽」紋をお使いということでしたので、この地域に
住む20数軒の土谷さんは全て同じ紋かと考えていたのですが、
この地の出身の別のかたからの情報で他の紋もあることがわかりました。

■「抱き茗荷(だきみょうが)」【茗荷(みょうが)】
 ◆大分県真玉町
 この紋については、2年前の電話での聞き取り調査の際に確認
できたものですが、多くはないようです。

■「丸に酢漿草(まるにかたばみ)」【酢漿草(かたばみ)】
 ◆大分県真玉町
 真玉町の応暦寺という寺の墓地には多くの土谷さんの墓があります。
7対3くらいの割合で、梅鉢紋(変形含む)と丸に違い鷹の羽紋が
使われています。一基だけ、別の場所にこの紋の墓があります。

■「丸に木文字(まるにきもじ)」【文字(もじ)】
 ◆大分県香々地町
 この土谷さんの系図を見せていだくと、300年ぐらい前までは
「原」という姓を名乗っていたのを、「土谷」に変えたようです。
理由はわかりません。

■「丸に三つ盛目結(まるにみつもりめゆい)」【目結(めゆい)】
 ◆大分県別府市
 直接確認をしたわけではないのですが、電話でお聞きすると
「丸の中に品という字が書いてある」というので、この紋に丸が
付いているのだろうと思われます。

 メール新聞第1号の付録の「土谷又四郎の送状」の末尾には、幕紋と
して「違鷹左羽」、「梅の花」と書いてあるように読めますので、大分県の
この地に、西暦1500年代末期には「違い鷹の羽」と「梅」の紋が
土谷一族で使われていたのだろうと思われます。

 (2)各都道府県の土谷さん
【東北地方】(それぞれの地名の地図上の場所はメール新聞第2号で
ご確認下さい)
   http://www.aboc.co.jp/pub/cd/j14.html
 上記URLの地図を見ていただくとわかりますが、「〜〜沢」(青色)
という地名は東日本に多く、「〜〜谷」(赤色)という地名は西日本に多い。
しかもこんなにまでクッキリと分かれます。実際に岩手県内に、「〜〜沢」
という地名は2,220件、「〜〜谷」という地名は123件、実に20分の1
程度です。「土谷」という地名はその中の一つ。いかに例外的な地名である
かがわかります。こうしたことから、土谷という地名は西日本から来た土谷と
いう名前に由来して付けられた可能性はないだろうかと考えたりもしました。
■ 土谷村(岩手県江刺市田原のあたり)
 『餅田村(もちだむら)の南に位置し、東部は北上高地西端の低い丘陵、
西部は東方から南方を流れる伊手(いで)川と、西境を南流する人首(ひと
かべ)川に挟まれた沖積低平地に立地。土屋村とも書かれた。寛永19年
(1642)の土谷村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方28町4反
余・・』(日本歴史地名大系第三巻:岩手県の地名/1990.7平凡社発行より)
 岩手県営バスのバス停名として「土谷」という地名が残っています。電話
帳によると江刺市には土谷姓は1軒しかなく、西隣の水沢市には10数軒、
そして更に西に40〜50キロほど山に入った秋田県東成瀬村及びそこから
更に西に15キロほど入った十文字町に数十軒規模の集落が見られます。
■ 土谷川(岩手県葛巻町)
 葛巻町の元木という地域に10軒ほどの土谷さんの集落があり、そこ
から南に行った岩手町にも土谷さんが何軒かあります。他に滝川村にも
土谷さんがおられ、盛岡市の北側のこれらの地域及び盛岡市を合わせて
30軒ほどの土谷さんがおられます。
■ 土谷(秋田県本荘市)
 『近世初期には北の谷地村(やちむら)と南の土屋村(つちやむら)は
一体としてとらえられ土谷村とよばれ、その後二村に分離、天保郷帳に
「古者 谷地村 土屋村 弐ヶ村」とある。明治8年(1875)両村が
合併して土谷村となる。』(日本歴史地名大系:秋田県の地名/1990.7
平凡社発行より)
 現在は本荘市の中の大字名として残っています。本荘市内の土谷さんは
2軒しかなく、平鹿郡、雄勝郡、に土谷姓が多く見られます。
 秋田県の土谷さんについては、家紋のところでも書きましたが、岩手県側
から移ってきたようです。雄勝郡東成瀬村の公民館長をされている土谷さん
に電話でお聞きしましたが、田子内(たこない)にはかつて金や銀を産出
する鉱山があったそうで、先祖はその鉱山の開発でここに来た、という話が
伝わっているそうです。また、相模の三浦氏の流れだという話も伝わって
いるそうですが、記録などは残っていないそうです。また、大分県と同じ
ように本家と分家とで「土」に点を付けたものと付けていないものとで
区別していたそうです。大分県では本家に点を付けている例がありま
したが、こちらでは分家に点を付けていたそうです。
 この三浦氏の流れという点については、北陸地方の説明の時に詳しく
触れることにしますが、「橘」紋の説明で触れた金沢市の土谷さんの
先祖は、相模三浦氏の子孫「土屋大学助」という人物だと伝えられて
いるそうです。

(3) 土谷さんファンタジー
 今回のメール新聞の東北地方の土谷という地名に関連して、いくつかの
歴史上の事実を元に、源義経と土谷の先祖との関係を想像してみました。
ネット上にアップされている吾妻鏡
(http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html)
と、大分県真玉町の町誌の内容などを元に書いたご先祖ファンタジーです。
くれぐれもまともな話として受け止めたりなさりませんように。

 時は、元暦元年(1184)年7月、当時豊後国宇佐神宮の大宮司の
立場を宇佐氏と争っていた緒方惟栄(おがたこれよし)は、宇佐神宮を焼き
払うという前代未聞の事件を起こした。この3年前に平清盛が亡くなり、
平家は都落ちし、当時平家と関係が深かった宇佐神宮や太宰府などに逃れ
ようと画策していた時期だった。そうしたときに宇佐神宮の焼き討ち事件が
起こった。この件で緒方惟栄は朝廷から罰せられることになるのだが、
平氏から源氏に政権が移る時期であり、すぐに赦されることになる。
惟栄は、翌元暦2年(1185)1月、平家を追討する源範頼に82艘の
兵船を調達し援助し、その年の3月末に平氏は檀ノ浦にて滅亡する。この
兵船の調達の功労によってか、宇佐神宮焼き討ちによる罪をこの年の
10月(改元され文治元年:1185)に赦されている。この後、源義経
が兄の頼朝に追われる身となり、後白河院は義経を九州に下す事とし、
惟栄の海軍力に目をつけ、義経先導を命じた。その仲介者は豊後国司の
藤原頼輔(あるいはその息子の頼経)。文治元年(1185)11月3日、
惟栄は義経を先導し京都を発ったが、6日兵庫県の大物浦(だいもつうら)
で乗船し、疾風にあい難破して頼朝軍に捕えられて鎌倉に下される。そして
翌文治2年(1186)11月に上野国沼田荘に配流になるのである。
惟栄はその後配流を解かれて豊後に戻ったというがその後の記録はなく、
不明である。義経は、難破の際、危うく逃れることができ、吉野に身を
潜めた。その後東北平泉の藤原氏を頼って北に向かうことになる。
 さて、惟栄が捕らわれてから1年後に沼田配流が決まっているわけだが、
この惟栄、もしくは仲介者の藤原頼経の配下に土谷の先祖(複数)がいたと
考えてみた。同じく捕らわれて、文治2年に裁きが下った、と考えたの
である。土谷家の文書(写し)の中には、頼朝公御朱印という文字に
続いて「依功アルニ令領地之所/之右末世違乱之輩/右之者流罪死罪被/
行候由仰下事實正/也」とあり、意味がはっきりはわからないが、流罪
とか死罪なんてことを書いている。惟栄と同じく、どこかに流された
土谷がいたのではないかと考えると同時に、もしかしたら、大物浦での
難破の際、義経と共に逃げ延びた土谷もいたのではないかと考えた。
 大分県大岩屋の土谷さんについて最近新しい情報を入手したのだが、
以前から持っている情報と照らし合わせることで、文治2年(1186)
という年に、鎌倉で源頼朝から何らかの沙汰があり、久継という父親は
死罪に、その長男の持継は相模に、二男の吉継は関西方面に行くことに
なったようなのである。
 惟栄の配流先の上野国沼田荘というのは今の群馬県沼田市。直線距離で
50キロほどのところ、同じ群馬県の土谷沢というところの奥にある
土谷さんの集落や、その近くの、文治2年(1186)の年号の入った
土谷小太郎義忠の位牌がある軽井沢町も思いのなかでつながってくる。
 さて、一方、岩手県江刺市の田原の土谷という地名だが、現在は県営
バスのバス停にその名をとどめている。またその近くに「土谷公葬地」と
いう公共墓地のような場所が残っていることが住宅地図から確認できる。
そして、そのバス停から百メートルほど入ったところに「弁慶屋敷跡」と
いうのがあるのである。平泉の中尊寺から直線距離で20キロほどの
ところ。かつて弁慶が居を構えていた場所という言い伝えがあり、頼朝が
派遣した兵と戦い自刃したと伝えられる義経が、実は北に逃れたという
伝説の中で、この場所にも立ち寄ったとされるところである。
 現在の江刺市には土谷さんという名前のかたは電話帳ソフトによると
わずかに一軒しかないが、西隣の水沢市には10数軒、そして、西に
40〜50キロほど山に入った、秋田県東成瀬村及びそこから更に西に
15キロほど入った十文字町に数十軒規模の集落が見られる。西日本に
由来する土谷という名前の人物がしばし滞在したところに土谷という
地名が付けられた。そして義経追討のため頼朝が派遣した兵から逃れ、
逃げ延びた先祖が山の中に住み着いたのではなかっただろうか、と想像
してみた。岩手郡葛巻町の「土谷川」と土谷さんの集落も、同様の理由に
よるのではなかっただろうか。

 【次号予告】
 人名辞典などで確認できる明治時代ごろ以前の土谷さんに関する情報を
まとめることにします。また、関東地方の地名および土谷さんについて
まとめてみます。

【お知らせ】
 「土谷さんML」(メーリングリスト)をスタートさせています。
今のところ参加者は私を含めて二人です。(^^;
 freemlという無料のメーリングリストサービスを利用していますので、
配信される各メールの先頭数行にCMが入ります。それ以外は快適に使う
ことができます。参加を希望されるかたは、以下のページの右上のところ
から登録してください。
   ../cgi-bin/z_all.html

連絡先:
 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
   電話・FAX:093−617−1774
   電子メール :shige@tsuchiya.com

2000.3.18  土谷重幸

【追伸】
 第3号ができあがったあとで、「三つ鱗」紋および三浦氏に関連して、
大分県、石川県、秋田県を結ぶ線が新たに見えてきました。私が「山畑
土谷家系図」と呼んでいる大分県真玉町に残る系図があるのですが、
内容が疑わしいため、これまでは、あまり本気で調査していませんでした。
その系図の内容に、これらの地域のつながりを解く鍵になるかも知れない
と思える情報が含まれていることに気がつきました。この件については、
今回は間に合わなかったので、次号以降に書くことにします。

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土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com  http://www.tsuchiya.com/