土谷さんメール新聞     第4号
                           2000年6月18日発行
(1) はじめに
 予告内容と異なりますが、今回は石川県金沢市、大分県真玉町、三重町などの土谷さん
について書いてみます。
 2000年2月14日バレンタインデーに、金沢の敬栄寺という浄土真宗の寺に電話を
しました。昨年夏に電子メールでアンケートを実施した際の回答の中に、金沢の土谷さん
についてお知らせくださったかたがおられ大変に興味を持っていましたが、2月に電話を
することができました。その後、こちらから手紙と共にいくつかの資料をお送りし、それ
に対する返事に添えて、寺に伝わる資料と共に、金沢での土谷に関するその他の情報を送
っていただきました。その資料のまとめをする時間がなかなか取れなかったのですが、今
回、歴史博物館の論文の内容を吟味する中で、金沢市の土谷さんとつながることなども出
てきて、こうしたことについて少しだけまとめてみることにしました。このまとめを読ん
でいただけると、土谷のルーツについての一つの考え方がかなりおわかりいただけると思
います。ただ、この考え方もたくさんある中の一つに過ぎず、全国の土谷姓が全て同じル
ーツであることが証明されたわけでもなく、道のりの遠いことには変わりがないのですが。

(2) 県別人数について
県別の土谷姓の分布について、NTT電話帳より集計すると以下のとおりです。[1]表
では、件数の多いほうから10県、[2]表では、世帯数比率の高い順に10県分を表し
ています。
   [1]表        [2]表
県名  件数    県名    世帯数  件数 */100,000
北海道 574         大分    449,224  449  9.995
大分  449         奈良    484,519  168  3.467
東京  336         和歌山   387,195  127  3.280
大阪  328         秋田    390,589  112  2.867
福岡  281         石川    385,643   96  2.489
神奈川 230         北海道  2,323,071  574  2.471
奈良  168         福井    245,044   60  2.449
埼玉  164         島根    253,819   55  2.167
兵庫  164         群馬    657,534  123  1.871
千葉  147         山形    366,107   64  1.748

 この二つの表から、大分県が特別な地域であることがわかると思います。また、二つの
表のどちらにも登場する、北海道、奈良、なども注目されそうです。今回のメール新聞で
は、[2]表の上位5県のうち、大分、石川、そして秋田の3県が対象になっています。奈良、
和歌山両県については以前から興味があるのですが、現時点では私の手元に情報が入って
きておりません。

(3) 金沢の土谷さん
 金沢市に「土谷山敬栄寺」という浄土真宗の寺があります。この寺に伝わる記録による
と、この寺は天文8年(1539)に建てられた一向宗(現在、浄土真宗本願寺派)の寺
です。御供田という場所にあったものが、その後、白菊という現在の場所に移されたそう
です。この寺に伝わる土谷家の由緒帳などによると、この地の土谷氏の先祖についてわか
ります。その一部を紹介してみます。
◎御供田村(ごくでんむら)四郎右衛門先祖由緒帳
  寛政三年 由緒帳 亥七月 石川郡御供田村 四郎右衛門
「私儀、故七兵衛せかれニ御座候処、父七兵衛儀、延享元年十一月山廻り御代官被 仰付、
其後安永五年四月能州鳳至郡出津村十村役被 仰付候節、………
一、元祖   土屋大学助
大学助儀、先祖者桓武天皇九代後胤三浦義継四男岡崎四郎義実二男土屋小次郎義晴之二
男二郎義政せかれニ而御座候、相州居住仕候処、文明八年之比、加州米丸之郷江罷越、
近郷伐随へ、壱万石到領地、富樫政親没落後故有テ、長享二年飛州江立越、延徳三年於
飛州病死仕候、
一、元祖妻    洲崎兵庫娘
 永正十四年八月病死仕候」
この由緒帳は、寛政3年(1791年)に(土屋)四郎右衛門という人物が書いていま
す。文中の元祖土屋大学助の義父となる洲崎兵庫は加賀一向一揆の中心的な役割を担った
人物ですが、今回、敬栄寺から送っていただいた資料から、その簡単な紹介をします。

【慶覚(洲崎兵庫)】
 長享2年(1488)一向一揆軍に依り、富樫氏滅亡後加賀の国は本願寺の支配下
となり、以後90年間世に云う《百姓の持ちたる国》となる。一向一揆軍の武将「泉
入道慶覚坊」は代官として泉館に砦を構え、各所に道場を置き、一向宗の布教と住民
の治安に務めた。
慶覚寺・・文明年間(1469〜87)米泉村道場として慶覚建立す。
     寛永3年(1626)百姓町(現幸町)へ引越す。
安楽寺・・明応2年(1493)慶覚泉村道場として配下の道祐が創建す。
敬栄寺・・天文8年(1539)慶覚御供田村道場として浄勧建立す。
    1.山号は土谷山敬栄寺
    2.寺紋は立花(土屋家、土谷家と同じ)
    3.土屋家は元来慶覚門下衆(一向宗)であったこと
    4.土屋家の先祖大学は泉入道慶覚の聟であること
1.〜4.に依り土屋家は本来御供田村道場主を務めた家柄であったと思われる。

 土屋大学は、富樫氏が滅んだ年に、身内の内紛からか飛騨へ移ったそうで、その後延徳
3年(1491)に飛騨で病死。その息子隼人は御供田の館に居住し、天文3年(153
4)に亡くなっています。龍雲寺という別の寺に伝わる資料によると隼人は天正8年(1
590)に柴田勝家軍と戦って敗死したとなっていますが、年代的に無理があるように感
じます。隼人の二人の息子のうち、長男又二郎は敬栄寺に養われ、後に百姓に、二男小五
郎は慶覚寺に養われ、後に鶴来屋又兵衛の伜として町人となり、鶴来屋又左衛門として泉
野寺町に居住、となっています。

由緒帳の記述から、以下のようなつながりがわかります。
  三浦義継―岡崎四郎義実―土屋小次郎義晴−土屋二郎義政−土屋大学助
このつながりを吟味すると、以下のような疑問点が出てきます。
(1) 時代が合わない
 公開されている他の系図資料(系図纂要を参照しました)によると、
  三浦義継―岡崎四郎義實―土屋小二郎義清―土屋二郎義政
となっており、「清」が「晴」となっているところがありますが、同じと見てよいと
思います。さて系図纂要には、この「岡崎四郎義實」は、正治2年(1200)に89
歳で亡くなったと書かれています。また、「土屋小二郎義清」は、和田合戦(1213)
で討ち死にしたとなっています。この土屋小二郎義清は、岡崎四郎義実の二男で、相模
土屋家の創始者である土屋三郎宗遠の養子となり、土屋を名乗ることになった人物です。
この「土屋小二郎義清」の孫にあたるとする「土屋大学助」が、義清の死後260年も
経った文明8年(1477年)に金沢に来たとする金沢の由緒帳の記述は、時代が離れ
すぎて不自然です。
 土屋小次郎義晴というのは土屋小二郎義清とは別人で、義清から義晴までの間で数代
飛んでいるということも考えられます。その場合、義晴は岡崎四郎義實の息子ではあり
ませんし、その息子の義政は別にもう一人いたことになります。
ちなみに「土屋小二郎義清」も「大学助」という呼び名がつけられていたようで、系
図纂要に記述があります。
(2) 寺の山号が「土屋山」でなく「土谷山」なのはなぜか
 この地に来たのが、土屋大学助であり、三浦氏の筋に当たる土屋姓を名乗る子孫であ
るとするなら、彼につながると見ることができる寺の山号に「土屋」でなく「土谷」を
使ったのか、疑問が残ります。ここらあたりを解明できるならば、この地の土谷姓につ
いてわかるような気がするのです。明治時代になって、この由緒帳を書いた四郎右衛門
の孫に当たる八郎右衛門という人物の時から土谷姓を名乗るようになるわけですが、こ
の理由が不明のようです。

 なお、金沢市の電話帳によると、金沢市内の土谷姓のうち、「つちや」37件、「つち
たに」18件、となっています。これらの読みの違う土谷姓の全てが同じルーツを持つも
のなのか、異なるルーツを持つものなのか、これも興味あるところです。

(4) 系図年代のズレ
 金沢市の土谷さんで見られる系図の年代のズレですが、大分県の三畑土谷家系図、山畑
土谷家系図でも年代のズレが見られますので紹介してみます。

◎三畑土谷家系図
 土谷小太郎久継┬三郎持継―(又四郎吉継)―二郎三郎清継
        └又四郎吉継
 久継は、源頼朝の時代の人物だとしているのですが、その孫か曾孫に当たる次郎三郎清
継が亡くなったのは、天文16.10.12(1548)と記されています。先祖は相模の国の住人だと
していますが、相模の土屋やその他との関係は何も述べていません。
 ただ、この系図に関して、大岩屋土谷家では、原本が残っていないのが大変に残念です
が、昭和20年代にまとめられた資料では、持継と吉継とは兄弟であり、持継は関東に、
吉継は関西に住んだとし、持継から10数代を経て、大岩屋の土谷の先祖(六郎左ェ門信
勝)につながるとしています。この大岩屋土谷家の記録や言い伝えは三畑土谷家にない情
報も含まれており、興味深いものです。三畑の本家とされる小河内土谷家については、三
畑土谷家に伝わる文書などから推測するしかないのですが、今後、資料が出てくることを
願っています。

◎ 山畑土谷家系図
 この系図は、江戸時代末期ごろに書かれたもののようで、遠く神代の時代から書き起こ
しています。しかし、記述をずっと追っていくと、16世紀末ごろで途絶えていることに
なるような系図です。偽作の可能性が非常に高いものですが、なかなか興味深い面もある
と感じています。
 義通―義経―有経―政基―政泰―政経―家泰―家範―貞秀―貞政―範遠―宗治(土谷を
     名乗る:寿永元年(1182)に船で豊後に到着)
 山畑系図では、この義通を従五位下筑後守、義経を右馬允としており、そうした記述を
信じるなら、藤原北家から出た相模の波多野家の系図から分かれたものだとなります。ち
なみに豊後の戦国大名、大友氏もこの流れから出ています。相模の三浦氏、土屋氏なども
親戚関係にあったようです。
波多野氏の系図より
 公光―経範―経秀―秀遠―遠俊―義通―義経―有経―政基
 参考ページ

ここで、吾妻鏡の文治4年の記述に以下のようなものがあります。以下引用。
「文治4年 戊申(1188年) 4月3日 己巳 
 鶴ヶ岡の宮臨時の祭り。二品御参り。流鏑馬は専らその堪能を召さる。故波多野の右
馬の允義経が嫡男有経、曩祖に恥じざる達者なり。よって今日の清撰に応ず。頗る抜  
群の芸を施す。御感の余り一村(亡父の所領随一)を給わる。父義経は、去る治承四年
に誅戮せらるの後、囚人たり。景義に召し預けらるる所なり。七箇年を経て遂にこの慶
賀有り。」 
 この記述によれば、1188年に義経の息子の有経が鎌倉に居たことになります。一
方、山畑土谷家系図によれば、義経の息子である有経の9代後の子孫が1182年に豊
後に船で着いたとなっているのです。もし、吾妻鏡の記述と山畑系図の記述の両方を信
じるならば、宗治からみれば、9代上の先祖が同時代に生きていたことになり、これは
不合理です。

 こうしたことなどから、何らかの理由で系図が作為されていると考えています。その理
由や、なぜ相模の国につながるような系図を残したのかなど、今後検討してみたいテーマ
です。

◎ 小畠土谷家系図
 小畑は、真玉町の北隣の香々地町に属しています。江戸時代にこの小畠村で庄屋を務め
た土谷家にも系図が伝わっていますが、この系図は明らかに作られたものでした。以下、
「源姓原家系図」というその系図を紹介します。これは、曹洞宗梅松寺という寺にある、
ペン書きの写しで、オリジナルは東京の本家のかたが持っておられるそうです。

清和天皇
貞純親王 延喜16年5月7日没         (916)
經基王  天慶2年10月 源姓を始める     (939)
     天徳元年10月24日没        (957)
満仲   延喜16年4月10日生        (916)
     長徳3年8月没            (997)
頼光   天暦8年7月24日生         (954)
     治安元年7月24日没        (1021)
頼國
國綱   永長2年7月12日没        (1097)
國房   永保2年?             (1082)
光國   久安3年12月13日没       (1147)
光信   保安元年10月11日没       (1120)
光基   平治元年伊勢国を賜 義朝に随う   (1159)
光衡
光行   寿永3年関東へ参 実朝の時     (1184)
光定
定親   母は平貞時の娘
師親   原 彦四郎
師實   原 彌次郎    (ここで原姓と土谷姓とに分かれた?)
貞秀   土谷近江守
貞重   土谷修理太夫
秀夫   土谷久兵衛  寛永元年6月4日   (1624)
秀造   土谷久兵衛  宝暦元年3月20日没 (1751)
秀綱   土谷清左エ門 貞享4年6月23日没 (1687)
秀延   土谷喜平治  寛政6年5月28日  (1794)
秀定   土谷清左エ門(屋鋪長左エ門二男、養子)天保2年3月19日没(1831)
秀一   土谷幸平   嘉永5年10月29日没(1852)
秀彰   土谷(原)波左エ門 明治15年5月16日没(1882)

 「秀綱」のところで年代が間違っているのではないかと思われますが、年号の写し間違
いかも知れません。「光定」から「貞重」までは没年の記載がなく、戒名や位を記した記
述があるのみです。この間、世代の数と実際の年数との間に少し不合理があるし、記述の
形式が異なり、「原」姓や「土谷」姓を並記しているなど、不自然さが残りますが、元の
系図を見ないことにはなんとも言えません。貞純親王の没年など、公になっている他の資
料との食い違いなどもあるようです。

【参考】 原氏系図(系図纂要より)  http://tsuchiya.com/data/hara.gif

 さて、「系図纂要」と比べると、貞純親王から師實までは、多少の違いはあるものの、
ほぼ同じつながりを示しており、原家の系図としては正統な流れだと思われます。問題は、
「土谷近江守 貞秀」のところです。上記URLの画像を見ていただくと、貞秀は
「土居遠江守 貞秀」となっていることがわかります。また、「土居」という文字は
「土谷」と読み間違える可能性があるようにも見えます。いずれにしても、系図はこの部
分で、作為されたと考えられ、これ以降「土居」ではなく「土谷」という名字で、系図が
書き継がれていきます。いつの時代に作為が行なわれたのかはわかりませんが、庄屋家を
務める上で、その家筋が権威あるものであることを示す必要のある時期があったのでしょ
うか。
 この梅松寺という寺には、後光厳天皇の第3皇女が南北朝の戦乱を逃れてこの地に来た
とする言い伝えも残り、寺の建物の中には、菊のご紋が残っている箇所があるのだそうで
す。土谷家は、そのお姫様を守ってこの地に来た一族であるという話もあるそうです。
 系図が作られたものであったとしても、その時代には「土谷」という名字がこの一族に
伝わっており、その名字を残す必要があったのでしょう。この土谷は、同じ香々地町内の
300メートルほどしか離れていない山畑土谷家の分家と思われる別の土谷集落とは、互
いに異なる出であると認識していたようで、これも興味深い点です。
 寛政6年に亡くなった「喜平治」は、隣の真玉町の民家に残る玉泉寺の過去帳の末尾に、
住職の代筆をしたことを書いた自筆の文字があり、紙は当時の山畑村庄屋が提供したとな
っていて、この時代に庄屋同士の交流なども活発であったことがわかります。

(5) 民話「芋掘り藤五郎
 金沢の地名の由来とも関係のある民話がこの地に伝わっています。その民話を簡単にお
伝えしましょう。以下の文章は、美多幸夫さんというかたがまとめられたホームページに
掲載されているものから引用させていただきました。原文は以下のところにあります。
    http://www.nsknet.or.jp/~mita/eat/index.html

 その昔、山科(寺町台地の西南端)の里に藤五郎という世捨て人が住んでいた。加
賀の介藤原吉信公の子孫といわれたが、山芋を掘り、市にさばいて生計を立てていた。
そのため人々から、芋掘り藤五郎と呼ばれていた。無欲で奢らなかったが、礼儀をわ
きまえた立派な人物であった。
 ある日、和泉(今の奈良県)の初瀬という里から、観音様のお告げを受けたという
信心深い娘が、多くの財宝を携えて藤五郎のもとに嫁いできたが、藤五郎はたちまち
貧しい人々に、それらの財宝を分け与えてしまった。さらに妻の父方から贈られた一
包の沙金も、田の雁に投げつけて家に帰ってきた。
 驚く妻に、藤五郎は「沙金など芋を掘る山に、いくらでもある」と説明した。藤五
郎が沙金を洗った沢は、それから「金洗いの沢」と呼ばれるようになった。 

 芋掘り藤五郎の伝説は加賀藩士の富田景周が文化2年(1805年)にまとめた「越登賀
三州志」に金沢の名称由来として収録されている。これは金城霊沢の碑文が立てられたお
よそ40年前である。現在まで金沢に伝わる昔話として、各種の出版物に収められている
ストーリーのほとんどは、この「越登賀三州志」をよりどころにしていると思われる。以
上の文もその要約である。
 芋掘り藤五郎の伝説は全国各地に伝わる長者物語のひとつの典型である「炭焼き長者」
そのもので、特に大分県に伝わる「炭焼き小五郎」に細部まで酷似しているといわれる。
異なるところは、職業が炭焼きでなく芋掘りだというところと、名前程度である。
芋掘り藤五郎の伝説を単なる「炭焼き長者」の変形、と片付けてしまうのは簡単である。
しかしここではあくまで、伝説に隠された真実に迫りたい。
  (ここまで上記ホームページより引用)

(6) 炭焼き小五郎
 金沢の芋掘り藤五郎とよく似ているとされる「炭焼き小五郎」伝説は、大分県三重町町
誌によると、以下のような話です。町誌の記述によると、「現在残っている一番古い小五
郎伝説は、幸若舞の烏帽子折の詞章である。室町時代も早い時期に成立したらしい。」(三
重町誌 p.366)

以下、三重町誌P.1289-1291、長者伝説の欄からの引用です。
 全国的に広く分布する炭焼小五郎伝説は、三重町が発祥の地であるといっても過言では
あるまい。内山に伝わる古文書によれば、次のとおりである。

 昔、玉田の里に藤治という子供がいた。三歳で父に、七歳で母に死に別れた藤治は、内
山に住む炭焼又五郎に引き取られて成人した。その又五郎も八十一歳で他界したので、藤
治は名前を小五郎と改めてそのあとを継いだ。
 そのころ、奈良の都に久我大臣の娘で玉津姫という女がいたが、年ごろになって急に顔
一面に黒いあざができて嫁にもらう人がいない。姫は日ごろ信仰する三輪明神に、良い縁
談を授かるように二十一日間のおこもりをした。
 満願の朝方、夢の中に神が現われ、「豊後三重の里に炭焼小五郎という者がいる。この
者と夫婦になれば末は長者になるであろう。」とのお告げがあった。
 姫は明けて十六歳の春、ひそかに都を抜け出て豊後に下り、臼杵の港から三重の里を目
ざして歩いて来た。三重に着いた時にはもう夕暮れで道らしい道もない。途方にくれてい
るところへ一人の老人が現われ、「小五郎はよく知っているが、まだだいぶ道のりもある
ので今夜は私の家に泊まりなさい。」といい、家へ案内する。老人の家には花が咲き乱れ、
家は立派で多くの女たちもいた。姫はそこにいた天女から、「ここは真名野長者の家で、
金亀ヶ淵で顔を洗えばその黒いあざも落ちる。」と教えてもらった。
 一夜が明けるとそれは夢で、自分は前夜の松の根元に眠っており、老人もそこに寝てい
た。老人は姫を伴って小五郎の家に来たが、まことに粗末な家である。老人は姫をそこに
おくとたちまち見えなくなった。
 まもなく手足も顔もまっ黒で髪も藁で結んだ若者が帰って来たので、姫は小五郎である
ことを確かめ、三輪明神のお告げではるばる都から来たことを告げ、夫婦になることを話
すと、小五郎は驚いて、「自分一人でもやっと暮らしているのに・・・。」と断わる。
 姫は都から持って来た黄金を出して見せ、これがあれば生活には困らないというが小五
郎にはわからない。姫にすすめられて小五郎はその黄金を持って食物を求めに出て行った
が、間もなく帰って来た。姫が尋ねると、小五郎は、「そこの下の淵にカモがいたのであ
なたに取ってあげようと思い、あの光る石を投げたが当たらずカモは逃げてしまった。」
という。姫はその無知に驚いて、「あれはこの世の宝で、あれがあれば何でも求める事が
できるのです。」といえば、小五郎は、「あんなものが宝なら、私が炭を焼いている山やこ
の下の淵にいっぱいある。」という。姫は半信半疑で小五郎について行くと、そこは黄金
の山であった。そして淵からは黄金の亀が浮いて夫婦の将来を告げて消える。姫はここが
金亀ヶ淵であることを悟り、顔を洗うと夢で教えられたとおり、たちまち黒いあざは落ち
て美女となった。小五郎もこの淵で体を洗うとこれも美しい若者になった。二人はその黄
金を拾い集めて金持になった。他の人々はさがしたが見付けることはできなかった。金持
になった小五郎は各地から宝物を買い集めて、四方に万の蔵を建てるほどになったので
人々は「万の長者」「満野長者」とよび、後には「真野長者」「真名野長者」というように
なった。
 小五郎は仏教を信じ、唐の天台山に黄金三万両を贈ったので、天台山から蓮城法師が観
音・薬師の像を持ち来朝した。長者は蓮城を迎えて内山に寺を建立したが、これが今の蓮
城寺である。
 長者夫婦にたいへんきれいな姫が生まれ、これを般若姫と名付けた。姫の美しい事は唐
土にまで聞こえ、唐の帝は姫の絵姿を作って来るように人をつかわし、姫そっくりの人形
を作って水晶の箱に入れて持ち帰るほどであった。姫の美しい事は奈良の都にも伝わり、
皇子の后にと再三の要求があったが、長者は「一人娘なので・・・。」とお断りを申し上
げると都からは種々の難題をかけられるが、長者はその財力でことごとく解決した。たま
りかねた皇子は(橘豊日皇子、後の用明天皇)は姿を変えてひそかに都を離れて名前を山
路と変え、牛飼となって長者の家に住み込み機会をねらっていた。般若姫が重病にかかり、
神に伺いをたてると、「宇佐八幡の法生会で流鏑馬を奉納すれば姫の病気は直る。」と出た。
しかし流鏑馬のできる者は田舎者の家来の中にはいない。いつも笛ばかり吹いている山路
がそれができることがわかり、山路に流鏑馬をやらせる。その時宇佐八幡が出現して長者
に山路は皇子であることを告げる。長者は大いに驚いて姫の婿とする。
 そのうち、都にこのことが知れ、天皇の病が重いので早く帰るように使いが来る。皇子
は、「生まれた子供が男なら都に連れて来るように、女だったら長者の跡取りにせよ。」と
いって都に帰って行った。般若姫は子供を産み、女だったので玉絵姫と名付け、長者の家
へ残して都へ上ることになり、臼杵の港から船団を組んで船出をした。長者夫婦は近くの
山に登って姫を見送ったのでここを姫見ヶ岳(姫岳)という。だが姫は大嵐にあい途中の
島に上がって休んだ。ここを姫島という。やがて船団も整ったのでここを出発したが、周
防の海でまた嵐にあった。船は沈み姫は近くの浜に上がって井戸の水を飲んで、柳のよう
じをそこにさしたのがついて大きくなったのでここを柳井という。姫はここでとうとう亡
くなったが、ここにもゆかりの寺(般若寺)が建っている。姫を失った長者夫婦は大いに
嘆き、その供養のため石仏を彫ることを発願して臼杵深田の地に石仏を彫り、満月寺を建
立したのである。長者は推古天皇の十三年九十七歳で、玉津姫は九十一歳で世を去ったと
いう。内山には長者夫婦の墓や夫婦と般若姫の木像などがある。

(7) 中世鉱山開発と浄土真宗
 井上鋭夫という学者が書いた「一向一揆の研究」という本の中に、中世の鉱山開発が浄
土真宗(一向宗)と深く関わっていたこと、また彼らの信仰の対象として聖徳太子を信仰
するいわゆる「太子信仰」と呼ばれるものがあったことなどが記されています。以下、一
部を引用します。
 「勿論、太子信仰は親鸞教団に固有のものではなく、最澄以来比叡山に行われ、天台の
地盤の一つであった東国でも早くから伝わっていたというにすぎない。(中略)しかし初
期真宗における太子信仰には、常に強烈なものがあり、たんに鎌倉期における太子信仰の
一波とのみ断ぜられぬ面が少なくない。」
(第1章第2節「金掘りと太子信仰」より引用)
 「・・山間地帯の村人は、いずれも杣工であったから、のちには太子は大工・職人の神
とされたのであるが、本来は山の民(杣工・柑掻・金掘り・鋳物師・鍛冶・檜物師・木地
師・塗師など)に崇拝されたものと考えることができる。」
(同じ章、節からの引用)

 以下、修験と鉱山についての記述も引用します。新潟県佐渡の金山に関連した記述です。
 「ところで修験者は春秋二季に入山して、峯渡りの修行を行い、護摩をたいて祈念する。
この信仰対象である聖なる山々は仏菩薩が宿ると考えられた。しかも仏菩薩は黄金である
から、聖なる山は「金」を冠して呼ばれた。佐渡の国仲平野の北に聳える山が金北山(き
んぼくざん)と呼ばれ、山麓の「金沢」が重視せられたのはここに基づき、吉野山に金峰
神社があったのはこのためである。修験者の崇拝対象がすべて「カネ」(金・銀・銅・鉄)
を産出したといえないにしても、「金山」がすべて信仰対象であったことは十分に考えら
れるところである。「金(かね)」は財的価値よりも聖なる価値をもつものであり、仏であ
り光明にほかならなかったからである。
 ここに中世宗教と鉱山採掘との密接な関係が生まれる。戦国大名が鉱山採掘を大規模に
行う以前においては、鉱山採掘は験者(または僧侶)の経営するところであった。現在で
も新潟県高根金山の相俣鉱区の所有者である「相俣家」は、数百年来の「法印さま」の家
柄である。つまり法印は、水源地を掌握し、太陽の運行を熟知し、南都・北嶺の権威を頂
くとともに、金山の光明を背景に「護摩の灰」の霊力をもって、民衆に臨んだ山の神の代
官であったのである。」(一向一揆の研究/井上鋭夫 p.64)

(8) 鉱山開発と土谷
 2000年3月末に発行された大分県立歴史博物館の紀要の中には、1998年7月に
博物館に寄託された「土谷家文書」146点(大分県西国東郡真玉町三畑旧大庄屋家)の
目録と一部の写真、そして10数ページわたる論文が掲載されています。この論文の中で、
寄託された資料を客観的に判断し論述すると共に、土谷家についてかなり踏み込んだ考察
をし、以下のように推論してくれています。文中の光徳寺は浄土真宗の寺です。
 「何故に土谷家が離れた地にある光徳寺の檀家であったのかは、土谷家が「金師」とさ
れた鉱業技術者であるとするならば、そこにはかつて井上鋭夫氏が論じられた真宗と中世
鉱業との結びつきが想定される」
 「土谷家は他所からの移住者であるものの、16世紀末には、一般農民と異なる存在で
あり、近世には庄屋を務めたことは、同家が鉱業に関わる「山の民」であったことに由来
し、中世末の足駄木においては中心的な位置にあったことが推測される。」
 今回寄託された文書が残る三畑土谷家は、大分県西国東郡の土谷一族の一つの分家に過
ぎません。他の土谷家には、比較できるほどの記録が残っていないのが大変に残念ですが、
三畑土谷家よりも本家筋に近いと思われる大岩屋土谷家は、かつて金鉱山があったとされ
る場所の近くに今でも集落をなしています。また一族の菩提寺である天台宗応暦寺には聖
徳太子像が安置され、その裏山に先祖の墓とされる16世紀末の年号の入った墓がありま
す。
 西国東からは直線距離で70キロほど南に下ったところになりますが、「炭焼き小五
郎」の民話と、墓が残る大分県大野郡三重町という町があります。この地の土谷さん集落
は菅生(すごう)という地にあり、炭焼き小五郎の墓がある天台宗連城寺のある内山から
は7キロほど北東に位置します。この菅生には菅生八幡神社があり、その神官を代々務め
る神田家は11世紀末ごろ、戦に敗れ越前の国から逃れてきたとされています。その時の
従者が土谷と麻生という二つの家の先祖だそうで、この神社の祭りにはこの二つの家の男
性が重要な役目を果たす習わしになっています。土谷家の子孫は、菅生八幡神社の入口の
鳥居の両脇を固めるように家を建てて住んでいます。麻生家は金田という地に住み、菅生
から1キロほど南西に位置しています。この金田という地名も金属開発との関連を思わせ
る地名です。菅生の土谷家も金田の麻生家も炭焼き小五郎の墓があるとする蓮城寺を菩提
寺としているそうです。
 最初に掲げた、[2]表を見ると、人口比率分布では福井県も上位に入っています。三重町
の神官の家に伝わる話が越前からの移住であるとしている点についても、つながりがなか
っただろうか、と感じさせます。
 炭焼き小五郎伝説は、内容は奈良や平安時代の古い話ですが、話ができ上がったのは室
町時代以降のようです。似たような話が全国に広まる過程に、鉱山技術者の移動や交流が
関わってなかっただろうか、という気持ちがしています。

(9) 日本鉱山史の研究
 岩波書店の「日本鉱山史の研究」(小葉田淳著)という本より、何ヶ所か引用します。
(a)「日本鉱業史上、明治維新より明治の前半にかけて鉱業の近代化が進められ、大きな変
革をなしたことは明かであるが、それ以前においては二つの発展の時期を画しうる。一は
七−八世紀の律令的古代国家の確立した時代、一は十六世紀中期−十七世紀前期の近世封
建体制の完成した時代である。
 この後者の場合は、まず金銀山が全国的に開発され、金銀の大増産となって現れた。
金銀山は戦国大名の熱心な領内の資源開発の方針のもとに開発が進められた。金銀は軍
資金や恩賞用に重用され、またこれまでの銅銭にくらべてはるかに価値の高い通貨として
もしだいに通用してきた。それは戦国の領国経済から、政治的統一が進むにつれて、商品
経済が拡大発展していった条件にもとづくものであった。」(p.5)
(b)「東日本の金銀山
まず注意されるのは、甲斐・駿河の金山で、甲斐では黒川・保・中山等の諸金山は武田
信玄時代に稼行され、駿河では富士(麓金山)・安倍金山が今川氏治下に開発されていた。
これらは、これまでの産金が東北地方の砂金採取を主としたのに対し、やはりはじめは砂
金採取を併用しているが、かなり深い坑道掘をもって金鉱精錬を行なったものがある。黒
川・富士には金山衆と呼ばれた掘間つまり坑をもつ業者があり、彼らは屋敷・名田・諸役
免除等を領主より供与されて在地の武士団を形成し、戦時には侍大将の組下に編入され、
ときには坑道戦の特技をもって武功をたてた。黒川金山衆は武田氏滅亡後、あるいは塩山
附近に帰住し郷士的存在となり、あるいは諸国を廻り、伊豆・秩父の鉱山開発や関東地方
の用水路工事等に貢献した。佐渡鉱山の開発にはかかる甲州人が関与した点が多い。
 伊豆金山と称したのは土肥・縄地等の金山であろうが、慶長十一年ころ多量の銀を産し
たらしく、繁栄は極めて短期間で、当時の記録には伊豆銀山とも書いている。佐渡の金は
平安末期から現われるが、これは西三川の砂金で、ここの砂金は十六世紀末から十七世紀
にかけてさかんに採取した。」(p.29−30)
(c)「西八代郡金山 駿河がわの麓(富士宮市)の地内に、天文年間今川時代にすでに金山
が開かれていて、富士金山という。麓より金山嶺を越えて湯の奥に通ずる山経は、かなり
険阻であるが、いまもなお利用されている。山経のかたわら、金山嶺につづく国界の東が
わに富士金山、西がわに中山金山の旧坑がある。中山金山も信玄時代すでに稼行されたこ
とは、つぎの文書が示している。(文書略)」(p.287)
(d)「以上の文書によって、黒川金山は天正五年ころより産金が減じたことが知られる。鶏
冠山神社は黒川金山の盛時に、守護神としてまつられていたらしい。この神社は大山祗命・
金山彦命を祭神として、奥宮は鶏冠山頂に、山麓に前宮があることが『甲斐国誌』にみえ
る。」(p.295)
(e)「甲斐およぼその隣接地方の金山が、信玄のころ開発されたことは、築堤治水の土木技
術とどう関係するかは、なお技術史的な検討を必要とする。ここではその無関係とは考え
られないことを予想する程度である。
 黒川金山は信玄時代の代表的金山であったが、天正以降は衰退して、金山衆、あるいは
その配下の稼働人は帰農したものもあるが、他所へ出離したものもあった。」(p.308)
(f)「さらに甲斐の金山に関連して注意されるのは、佐渡金銀山で業績をあげた奉行の大久
保長安や鎮目惟明等が甲斐出身であり、また佐渡の地方役人には甲州人が多かった事実で
ある。この問題は佐渡の研究において考えようと思う。」(p.309)

 大久保長安が武田信玄から「土谷」姓を賜ったという記録があることはメール新聞第1
号で紹介しましたが、こうした文章をまとめて読むと、全国の「土谷」姓のほとんどは、
もしかしたら、甲斐の国の鉱山技術者とつながっているのかも知れないと思います。
 資料(d)の「大山祗命」という祭神ですが、大分県三畑土谷家には江戸時代後期の宇佐八
幡宮の大宮司の署名が入った「大山祗命」の掛け軸が伝わっています。実は現在の当主は、
この掛け軸は先祖が相模から持ってきたものだと信じておられます。鉱山技術者の神とし
ての大山祗命を大事に伝えてきていると感じます。
 大久保長安は、伊豆、佐渡、石見などの金山開発に携わったようですが、佐渡以外の地
域にも甲斐の技術者を連れていったのではなかっただろうかと考えるのは自然なことだと
思います。最初の[2]表によると、島根県は人口比率では県別で8位に入ります。新潟県は
32位と、土谷さんが少ないのですが、そこからさらに秋田県などに移住した可能性も考
えられます。伊豆については、現在の土肥町および河津町縄地にかつて金山があり、小田
原に居た大久保長安が指揮を取っていたのでしょうか。伊東市や神津島村の土谷さんの先
祖とのつながりを感じます。

(10)物部氏について
 石見の物部神社(大田市川合町)について、社伝では、大和地方からこの地に移り住ん
だ物部氏が514年に、氏神(宇摩志麻遅命)を祭神として創建したとあります。延喜式
神名帳(927年完成)に記載されているものを「式内社」といいますが、物部神社は石
見の国式内社の筆頭であり、「石見一の宮」として長く尊崇を集めてきました。
 延喜式には甲斐の国から壱岐の国までの物部神社が載っているそうですが、神位を授か
っているのは、甲斐、佐渡と石見の3カ所だそうです。これらが、大久保長安の足跡と重
なるのは偶然とは思えません。変形春日造りの本殿は高さ16.3mで、出雲大社につぐ
規模だそうで、大内、毛利、徳川の寄進状、大内義隆が武運長久を祈願して奉納した刀剣
などがあるそうです。
 また、岩手県に住むSさんからいただいたメールの中に次のような指摘がありました。
「陸奥国(古代東北地方の呼び名)は金の産地でした。金の採掘をしていたのが物部氏と
言われています。物部氏の発祥は九州ですので,物部氏と土谷氏の間で何らかの関わりが
あったのではないでしょうか。
 物部氏と蝦夷(陸奥国の原住民)は朝廷という共通の敵の存在に対抗するため協力関係
にありました。奥州藤原氏の平泉中尊寺金色堂などは物部氏の経済的バックアップがあっ
たからこそできたのだと思います。」

(11)大分県真玉町の土谷さん
 三畑土谷家は、古くは浄土真宗光徳寺の壇家で、山畑土谷家は同じく浄土真宗の西願寺
を菩提寺としています。この西願寺は山畑土谷家の集落からは、かなり離れた海岸近くに
ありました。今は廃寺となり、石段などが残っているだけだそうです。この寺の近くに金
屋という地名が今も残っており、金山があったとされる大岩屋土谷家集落のそばの真玉川
が海に注ぎ込む河口近くに位置します。金屋という地名は、全国に見られ、鉱山と関係し
ている場所が多いようなので、興味のあるところです。
 三畑土谷家は家紋として下がり藤を使っていますが、その本家とされる家を始め、同じ
一族と見られる家は、梅鉢やその変形を家紋として使っている家がほとんどです。一方、
山畑土谷家は違い鷹の羽紋を使っており、この紋を使っている土谷家は、梅鉢紋を使って
いる土谷家よりも格下とされていたような歴史が伺えます。
 こうしたことから、仕事上の分担から少なくとも二つのグループが存在していたのでは
ないだろうかと想像しています。例えば、鉱山開発を指揮する者と、実際に採掘に当たる
者、あるいは採掘する者と運搬する者、などといった分担によるものなどではなかったか
というものです。
 以下、真玉町誌p.5に書かれているこの町の鉱山跡についての記述です。
 「大岩屋の旧鉱山は珪石山と谷を隔てて隣合っている。いずれも休業しているが、珪石
は石英が高温により変化した変成岩の一種で、その際金、銅、その他の金属が含まって鉱
石となることがある。珪石の山と金属の鉱山が隣合ってあるのは当然である。三畑地区に
も、珪石を産し、竜ヶ谷では鉱石発掘に関する文書が三畑村庄屋土谷家に残っている。し
かし、操業には至らなかった。また、小河内にも鉱山があった。これ等が、鯛生(日田郡)
立石(速見郡)両金山と一連の鉱脈であることは前に述べたが、当町では埋蔵量が少なく、
断片的であるため、事業として成り立たなかった。
 珪石山は耐火煉瓦の原料となっていたので、煉瓦山と呼ばれ、また、タイヤの原料にも
使われ、海外に輸出されたが、マッチのない時代「火うち石」に使用されたということで
ある。」
 文中に出てくる、大岩屋、小河内、三畑、はいずれも「土谷小太郎久継」を先祖とする
としている土谷家の集落のある土地です。大規模な鉱山開発はなされないままだったよう
ですが、中世においての小規模の発掘があったのかも知れません。
 【参考】・大分県における土谷家の系図の相互参照図

(12)ふたたび金沢の土谷家
 金沢に残る芋掘り藤五郎の民話と地名の由来から、この地がなんらかの金属鉱山に関係
ある土地であると推測できます。金沢の土谷家と鉱山開発の関係は今のところ何も出てき
ていませんが、浄土真宗とのつながり、相模からの移住、系図年代のずれ、など、三畑土
谷家との共通点もあり、現在の大分県の土谷家が、かつて鉱山開発に携わった一族である
という記録も言い伝えも持ってないことなども、かえってその類似点となるように思えま
す。金沢における土谷家の先祖も、鉱山開発に関係した「山の民」ではなかっただろうか
と推測するのです。
 そして、もともと「山の民」として一族を形成していたところに、一向一揆に荷担する
機会が生じ、あるいは一向一揆の中心的な担い手としてこの一族がいたかも知れませんが、
武士を先祖に持つ一族だとすることでその権威を高めようと考え、相模の三浦氏とのつな
がりを示すために系図を作ったのではなかっただろうかと考えました。もともと「土谷」
という姓あるいは呼び名を持っていた一族が、鎌倉武士の名門の一つ、相模の土屋氏につ
ながっているかのようにすることで、その権威を作為したのではなかったでしょうか。金
沢、大分のどちらの系図とも、土谷と土屋の関係をはっきりとは書いておらず、後世にそ
の系図を読んだものが、土谷は土屋から分かれたと思い込むような書き方をしているよう
に思えてなりません。

(13)秋田県東成瀬村
 秋田県雄勝郡東成瀬村田子内(たこない)肴沢(さかなざわ)というところに、土谷さ
んの集落があることは、メール新聞3号でもお伝えしました。この肴沢というところにも
古い時代に金山があったこと、土谷さんの先祖は鉱山開発に関係してこの地に来たという
言い伝えがあること、相模の三浦氏と関係があるという言い伝えがあること、など、今回
の話のテーマに合うような条件が揃っています。家紋は三つ鱗。これは北条氏の家紋とし
て有名だとか。

(14)さいごに
 先祖のルーツを探る上で、それぞれの家に伝わる記録や言い伝えは、なにがしかの間違
いを含んでいたとしても概ね真実であるとする態度と、嘘や誤謬や作為から出発している
という気持ちで臨む態度とのバランスが必要だと感じています。また、宗旨や家紋などは、
現在のものが初めからずっと続いているとは限らないという点にも気をつけるべきだとい
うことにも気付かされました。
 全国の全ての金山に土谷が関わったと考えるのは間違っていますが、逆に、土谷集落が
あるところや土谷という地名が残るところのほとんどが何らかの鉱山開発に関連したとこ
ろではなかったかという思いを強めています。炭焼き小五郎伝説を全国に広めた人たちの
一部に「土谷」の先祖がいたということはなかったでしょうか。地域や時代によっては、
鉱山従事者(あるいはその子孫)は、差別を受けたり賤民扱いを受けたりしたこともあっ
たようです。そうしたことが先祖の職業や由来を作為するようなことにつながったケース
もあったかも知れません。         福岡県北九州市在住  土谷重幸

 今回のメール新聞をお読みになった感想やご意見、あるいは関連情報など、お寄せいた
だければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。特に以下の点について、何かお気付き
の点をお知らせくださると幸いです。
【宗教】古い時代の先祖が、浄土真宗ではなかったか?
     戒名の先頭に「釈(釋)」と付く場合は、浄土真宗である可能性が大です。
     太子信仰(聖徳太子)につながるような史料や言い伝えなどはないか?
     「大山祗命」が祭られる神社との関係はなかったか?
【鉱山】先祖の地の近くに、かつて鉱山やその関連施設がなかったか?
    鉱山開発に携わったという言い伝えや史料などが残ってないか?
    民話などに金などの発掘に関連したものがないか?
    「金」あるいは読みが「かね(かな)」を含む地名が残ってないか?
【土木】溜め池開発、治水工事、田畑の開墾、山の管理、などといったことがらに
    先祖が関わったという記録や言い伝えはないか?
【相模】相模の国とつながるような言い伝えや史料は残ってないか?

【付録】NTT電話帳で、住所の大字単位で7件以上(7件というのは特に根拠は
   ありません。)の掲載がある地区の一覧
 これを見ると、秋田県十文字町睦合、群馬県下仁田町青倉、大阪府堺市栂、の3ヶ所で
現在でも20軒を越える集中点があることがわかります。集団で移動してきたか、比較的
古くから住んでいるなどの事情があると思われる地域です。

北海道  札幌市  北区   新琴似  7
               北    8
          東区   東苗穂 11
               北   16
     帯広市       西    9
     亀田郡  恵山町  日浦   7
青森県  弘前市       石渡   7
岩手県  葛巻町       葛巻   8
     胆沢町       若柳   8
秋田県  平鹿郡  十文字町 睦合  41  (江戸時代初期ごろからの系図)
     雄勝郡  東成瀬村 田子内 14
茨城県  笠間市       福田   7
群馬県  甘楽郡  下仁田町 青倉  22
東京都  江戸川区      平井   7
     神津島村          16
石川県  金沢市       土清水  8
福井県  福生市       大虫町  7
静岡県  富士宮市      小泉  14
     伊東市       宇佐美  7
三重県  伊勢市       一色町 11
     多気郡  大台町  新田  10
大阪府  堺市        栂   25
奈良県  桜井市       上之庄 13
     御所市       楢原   7
     香芝市       上中   7
     北葛城郡 當麻町  尺土  11
          王寺町  畠田  17
和歌山県 和歌山市      本脇  10
     海南市       阪井   9
島根県  大原郡  大東町  大東  12
岡山県  岡山市       東畦  10
     笠岡市       尾坂   7
長崎県  壱岐郡  郷ノ浦町 牛方触  7
               本村触 10
大分県  豊後高田市     加礼川  7
               玉津  18
               新城  15
     西国東郡 真玉町  臼野  19  (山畑土谷家系図)
               黒土  16  (三畑土谷家系図、小河内土谷家)
               城前   8
               西真玉  7
               大岩屋 18  (大岩屋土谷家)
          香々地町 上香々地12  (小畑土谷家系図)
     東国東郡 国見町  大熊毛  9
     大野郡  三重町  松尾   9
               菅生  16  (菅生土谷家系図)

連絡先:
 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
   電話・FAX:093−617−1774
   電子メール :shige@tsuchiya.com

【追伸】 「土谷」の読みに関連して、「〜〜谷」という地名において、「〜たに」と 読む場合と「〜や」と読む場合とで、その分布を調べてみました。 驚くほどきっちりと分布していることがわかります。  「〜〜谷」という地名分布  このことから、「土谷」を「つちや」と読む姓は、関東にその起源がある のではないかと思われます。  以下の、[谷]の大辞林 第二版からの検索結果からわかるように、鎌倉・ 下総地方でこの傾向が大変に強いようです。  や 【谷】   「やつ(谷)」に同じ。世田谷・四谷・深谷など関東の地名の中に残る。  やつ 【谷・谷津】   低地。たに。また、低湿地。やち。やと。「―七郷」「―田」〔関東、    特に鎌倉・下総地方でいう〕  やち 【谷・谷地】   (東日本で)湿地帯。低湿地。たに。やつ。やと。「―田」  やと 【谷・谷戸】   ⇒やつ(谷) 《参考》地名の分布で、「沢」の付く地名と「谷」の付く地名とで、東西に   くっきりとわかれますが、このことを考慮すると、「谷」を「や」と   読む地名の分布の特殊性が際立ちます。      「沢」と「谷」 ================================================================= 土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com http://www.tsuchiya.com/