土谷さんメール新聞 第5号
2000年11月23日発行
(1) はじめに
しばらく間が空きましたが、メール新聞第5号をお届けします。20世紀最後のメール
新聞となります。
今回は、今年発行したこれまでのメール新聞の集大成のような内容になりました。いつ
もながら、かなり個人的な思い入れの強い視点からの書き物になっていると思います。ご
意見、ご感想などがありましたら、どしどしお寄せください。
これまでの調査から、私は以下のような考えを持つようになっています。ただ、今後、
この考えはまだまだ変遷していくだろうと思います。
・全国の土谷さんは、おそらく何らかの共通の起源を持つに違いない。
・土谷さんの共通の起源としての有力な候補は、朝鮮半島南部の伽耶に由来する製鉄
族ではないだろうか。また、「漢(アヤ)」氏とは、日本に移り住んだ伽耶の一族で
はなかったか。
・藤原鎌足を同族の始祖と考えている土谷さんが多いことも産鉄族の関係からだろう。
・全国の土谷姓と麻生姓の分布が大変によく似ていること、さらに製鉄跡が重なるよ
うにみえることは、産鉄族ネットワークの存在とその輪の中にいた土谷や麻生の先
祖の存在を示しているように思える。
・全国の「炭焼き長者伝説」も、産鉄族ネットワークの存在を暗示している。
・「土谷」姓については、なんらかの製鉄用語(場所、作業工程、材料、役割、など)
に由来するのではなかろうか。「つちや」「つちたに」「どや」「とたに」など、読み
の違いは地域や時代によるものと考える。
・鎌倉時代初期に発生した「土屋」姓との混同が生じた時期、地域がかなりあった。
・源平の争いの時期に土谷は源氏方に付き、その後、源義経支援側に回った。この時
期、製鉄族ネットワークはまだかなり強固なものだっただろう。特に義経が九州に
逃れようとした時や奥州に逃れたときにこのネットワークが機能したのだろう。
・親鸞が起こした浄土真宗が、その後蓮如によって応仁の乱前後の混乱期に爆発的に
拡大する際、製鉄族が新宗教の流布に貢献したと思われる。土谷の先祖もその輪の
中にいたに違いない。この時期、古代産鉄族ネットワークの結束は薄れていたと思
われるが、まだ残っていただろう。
・江戸時代に入るころには、古代、中世と続いた産鉄族ネットワークは完全に消滅し、
一般農民としての生活に入る者も多く、また、武家としての土屋氏の子孫との同化、
混同が進んだと思われる。
・それぞれの土谷さんに伝わる系図の内容は尊重すべきであるが、時代の変遷の中で、
一部の削除、誇張、挿入、などが行なわれたであろうことも十分に考慮する必要が
ある。
(2) 三重という地名、水銀と鉄
大分県大野郡三重町に、同じ大分県内の国東半島からは少し離れて、土谷さんの家が集
まっています。この三重町の土谷さんは全ての家が同じルーツに関しての話を持っている
わけではなさそうで、系図を見せていただいた家は、15世紀末ごろからのその系図によ
れば、初代のころに大分県速見郡大賀之庄(現在の速見郡山香町大神)から移ってきたよ
うです。三重町内の菅生と言うところにある菅生八幡神社の門前にある数軒の土谷さんに
ついては、系図は残っていないが、神社の神官の家に伝わる系図と言い伝えから、11世
紀末に、神田さんという神官の先祖の家来として、越前から戦に敗れて逃れてきたそうで
す。その時に付いてきた従者のもう一人が麻生さんの先祖で、麻生家は金田(きんだ)と
いう土地に住みました。この神社の祭りに於いて、土谷と麻生の二つの家は、特別の役割
を持ってきているそうです。
さて、三重町誌によると三重という地名の由来はわからないとしながらも、三重県の三
重という地名の由来について書かれた日本書紀の記述を引用して説明をしています。
この三重県の三重について、民俗学者の谷川健一さんが、「民俗、地名そして日本(同
成社)」という著書の中で、「三重」について書いてあるのを要約してみます。
日本武尊が三重の村に着いたとき、自分の足は三重のように曲がって、大変にくたびれ
たので三重と名付けた。この三重は現在の四日市市の蘆田郷(あしだごう)ではないかと
しています。そして、ここにある足見田(あしみた)神社についての説明に「アシミタの
神域の東にオシミ田という地あり。往昔神田なり。」「後世に至り民俗の買得て転耕するに
至り、その田つくる者必ず唖児を産めり。」とあるそうです。かつて神の田があって、そ
れを一般の人に払い下げ、そこで田を耕してその米を食べたら、必ずおしの子を産んだと
いうショッキングな話なのです。天保年間につくられた『勢陽五鈴遺響』という三重県の
地誌に載っている話だそうです。
この話を読んだ谷川さんは垂仁天皇の皇子の本牟智和気(ほむつわけ)がおしだったと
いう逸話を思い出したそうです。また、『出雲風土記』の仁多郡の中に三澤という村の稲
を妊婦は食わない。食うと必ずおしの子が産まれるというふうに書いてあるのも思い出し
たそうです。さらに『播磨国風土記』の中の記事を紹介しています。
「三重とふ所以は、昔、ひとりの女ありき。★(たかんな)を抜きて、布もてつつみ食
らふに、三重に居て起立つこと能はざりき。故、三重といふ。(★は竹かんむりに均)」
タケノコを布で包んで女が食べたら、足が三重に曲がって立つことができなかったとい
うのです。そしてこの三重と隣り合わせに品遅部(ほむじべ)の村が並んでいることに気
がついたそうです。この品遅というのは本牟智和気、物言わない皇子にあやかってつけた
部民が品遅部なのだと説明しています。
そしてここに出てきた場所が水銀の産地であったことなどから水銀中毒と、足が立たな
いとかおしの子が産まれるということを結びつけられるのではと推測しています。さらに
これらの地域が古代に製鉄を行なっていた場所であるともしています。ちなみに、土谷さ
んの集まっているところは、三重県では伊勢市一色町、兵庫県では川西市、伊丹市、尼崎
市、篠山市、三田市、など県東部、島根県では大原郡大東町、です。
三重町誌によると、日本書紀に水銀を朝廷に納めた話が紹介されています。
「最近、炭焼小五郎の実在、非実在に関する研究が行なわれ、その経済力から考えて、
水銀(朱沙)採取の集団丹生氏であろうという説が提唱されている。たしかに文武天皇二
年(698)九月には、豊後国から朝廷に真朱を献じている。大分郡丹生郷(大分市)は
この朱沙の産地である。」
また鎌倉時代に地頭として使わされた大友氏の刀に使った鉄がこの三重町で鋳造されて
いたそうです。
「賀井本鍛冶は三重郷中村中尾にある。永禄六年(1565)ごろ、大友氏は奉行人を
通じて、森迫兵部少輔と臼杵左京亮に次のように命じた。
三重郷の内、賀井本鍛冶へ細工の儀、節々仰付けらるべく候条、郷内鍛冶衆へ炭・地鉄
の事、公役の砌(みぎり)においては・・(略)
この文書から戦国時代末期には、三重郷賀井本鍛冶が大友氏公用の細工(武器の製作)
に携わっていたことを知り得る。また、有事の際には三重郷内の鍛冶衆へ炭・地鉄を差し
出させた。」(三重町誌)
そして、全国の炭焼長者伝説の発祥の地とされる蓮城寺に関して、次のような記述があ
ります。
「古くから蓮城寺には箕渕・釜渕を金銀鉱石採掘の跡とする伝承があり、炭焼小五郎が
黄金を投じた金亀ヶ淵は、その川尻にある。もちろん、真名長者伝説完成後の付会であろ
うが、小五郎の伝説が鉱石採取と関係があるとする論説や伝承には説得力がある。
・ ・(中略)・・
現在でも、町内には鍛冶平(久知良)、タタラ(高寺)、タタラ(上田原)、イモジ(高
寺)、タタラ(内山)などに製鉄・鍛冶に関する地名が多く残されており、当地方が古く
から製鉄に必要な炭・砂鉄・珪石などの原材料に恵まれていたことを知り得る。柳田国男
博士は製鉄の技術をもつ者が、その開祖を神とあがめることは自然であろうとされ、宇佐
の菱潟の池の辺で奇瑞を現じた鍛冶の翁を祖とし、これに仕えた大神比義の祈祷によって、
宇佐神が出現したと説明している。
宇佐姫神は玉依(たまより)姫と伝えられている。玉依は霊託であり、この霊託の女性
を通して神が出現することは「烏帽子」の玉世姫(般若姫)に山路(用明天皇)が訪い寄
り、聖徳太子をもうけたことときわめて類似した信仰である。聖徳太子出生の説話は、蓮
城寺が仏法最初の寺であるということに結びつけた虚構であると考えられる。
・ ・(中略)・・
炭焼小五郎伝説も、内容といい、伝播者といい、冶金関係者や宇佐八幡信仰に本源があ
ることは、ほぼ間違いないことと思われる。」(三重町誌)
大分県国東半島にも古い時代にたたら製鉄が行なわれていたと思われ、いくつかの地域
に「たたら」「かなくそ」などの地名が残ります。大分県真玉町の土谷さんの先祖の地と
される黒土にも「たたらが迫」という地名が残っています。全国各地に点々と残る土谷さ
んの集落の近くに、必ずと言っていいほど、鉄や金属鉱山の話や地名が残るというのは決
して偶然の一致ではないと思うのです。
(3) 弁慶の話
源義経の家来となった武蔵坊弁慶の誕生について、こんな話が伝わっているそうです。
弁慶の母親は紀州の鍛冶屋の娘で、彼女が出雲に行っていたときに弁慶を出産した。出産
前に母は鉄の鍬を10丁食べたならば、その子は不死不滅の身で生まれるはずだったが、
9丁半を食べたところで弁慶が生まれてしまい、そのため体の一部が人間の肉になって生
まれてしまい、その肉の部分がいわゆる弁慶の泣き所として残ってしまい、弁慶は不死不
滅の体を持つことができなかった、というような話です。
この話で、弁慶が産鉄族と強く結びついた人物であること、紀州と出雲とのつながりが
うかがえます。以下、土谷さんメール新聞3号で紹介した「土谷さんファンタジー」の補
足版の紹介です。
大分県三重町から西の、緒方町、竹田市、などの一帯はかつて大神氏の勢力範囲でした。
平安時代末期の大神氏の中心人物であった緒方惟栄は、その海軍力を認められ、豊後国司
の藤原頼輔(あるいはその息子の頼経)の仲介で後白河院の命を受けて義経を九州に逃れ
させることとなります。文治元年(1185)11月3日、惟栄は義経を先導し京都を発
ったが、6日兵庫県の大物浦(だいもつうら)で乗船し、疾風にあい難破して頼朝軍に捕え
られて鎌倉に下される。そして、翌文治2年(1186)11月に上野国沼田荘に配流に
なるのです。源義経は弁慶等と共に吉野山に逃れ、その後平泉の奥州藤原氏を頼って逃れ
るわけです。
さて、実際にその目的を果たすことはなかったのですが、緒方維栄が源義経を九州に招
くにあたりその住居として準備したのが竹田市の岡城だったそうです。竹田市は「荒城の
月」を作曲した瀧廉太郎の生地として知られ、作曲の際にはこの岡城のことをイメージし
ながら作曲したと言われています。
(参考ホームページ)
緒方維栄も三重町の鉄を始めとした鉱物資源をバックにした経済力で栄えた一族であろ
うと思われ、ここで、義経、弁慶、維栄、などが産鉄族というキーワードで結ばれるのだ
と考えられるのです。吉野山に逃れていた時も産鉄族の勢力範囲に匿われていたでしょう
し、東北までの道中を守ったのも産鉄族のネットワークであったと考えられるのです。
次に、「金売り吉次」について少し紹介しましょう。
「義経記」に、栗原寺(宮城県栗原郡栗駒町尾松栗原浦ノ沢に、寺跡が残る)の名が出
てきます。金売り吉次に伴われて平泉めざして来た少年義経は栗原寺に泊まり、吉次が秀
衡に報告し、その迎えの使者が来たので、五十人の栗原寺の僧兵に護られて、平泉入りを
し秀衡の保護を受けたとなっています。また、平氏追討に出て偉功をたてた義経が、兄頼
朝に追われ、二度目の平泉入りをした時も、やはり金売り吉次と共に、この栗原寺に泊ま
り、平泉に挨拶してその後で秀衡に対面しています。この金売り吉次は、炭焼き藤太の息
子とされ、平泉を始め東北地方に、この炭焼き藤太と金売り吉次の話がいろいろと伝わっ
ているそうです。
(参考ホームページ)
この炭焼き藤太の話は土谷さんメール新聞第4号で紹介した、大分県三重町の炭焼き小
五郎や石川県金沢市の芋掘り藤五郎の話に酷似しており、産鉄族に伝わる共通の民話と考
えることができそうです。
以下のページなどを読むと、金売り吉次についての輪郭が少し見えてきます。
(その1: その2)
「砂金の流通は「金売り吉次」なる者がおり、陸奥の砂金を都の公家に運ぶ役割を持っ
ていたらしい。「金売り吉次」は単独の個人を指す者というより、彼を頂点とした金属民
集団を指すとみている人もいる。それは、奥州各地に点在する「炭焼き籐太」伝説と「金
売り吉次」伝説から推察できる。炭は金属を溶かすときに用いられる重要な燃料であるか
ら、この二つの結びつきは強いと考えられる。
陸奥からの献上物はこれだけにとどまらず、鷹の羽根(矢に用いる)、海豹の皮、絹、
布、漆など多種多様であった。また、刀を鍛錬する技術も高く、平安末期には舞草の刀鍛
冶が作る舞草刀が都にも持ち込まれていた。反りがあって、折れず曲がらず良く切れると
いう日本刀の特徴はこの舞草刀が原型となっているともいわれる。」
また、宮城県栗原郡金成町にある金田(かねだ)八幡神社は、炭焼き藤太の長男である
金売橘次(吉次)の館跡であるという伝承が残る神社だそうです。この神社に伝わる話と
して、以下のような話があり、このことから、吉次(橘次)の両親(炭焼き藤太)と熊野
信仰に関してのつながりが見えてきます
(参考ページ)
「金売橘次信高の両親は、福徳で智慧の優れた男児を授からんとして、紀州熊野三所大
神を怠りなく信心していると、ある夜熊野の神様が母の夢に立たれて、三つの紅色の橘(み
かん)をくだされた。すると母は即座に子を孕まれて、三人の男児を生まれた。長男は橘
次、次男は橘内、橘六と云う。兄弟はみな健康で美しい若者に成長した。成人して商才に
も恵まれ、その才知は世に並ぶ者もないほどであった。
一家はその御利益に感謝をし、毎年熊野山に詣でて熊野の大神の神力を敬い、ついに金
生の里に熊野三所宮をたてることになった。時に承久四年九月(一一七四年)のことであ
った。一家は令をもって宮室を造り三つの神の御正体を一輪の中に安置し、これを本宮と
した。本宮には阿弥陀様を、新宮には薬師様を、那智の宮には千手観音様を安置した。ま
た村に三つの寺も創建した。大照山の南方には円教寺を建て、天皇や国司が使用する祭田
寺を寄付した。その領地は、わずかであるが、この地は省令によって、熊田と呼ばれた。」
ずいぶん寄り道をしましたが、義経が吉野山から奥州平泉に逃れるにあたり、この金売
り吉次に導かれたことや牛若丸と呼ばれていた時代に吉次に案内されて奥州藤原氏を訪ね
ていることなど、義経と産鉄族ネットワークの結びつきを強く感じさせます。また、金成
町の金田八幡神社に伝わる話から紀州熊野神社とのつながり、そして弁慶の母親の話から
紀州と出雲のつながりなど、九州、出雲、紀州、奥州、それぞれの産鉄族が平安時代末期
ごろには、まだ強いつながり、全国規模のネットワークをを持っていたのではないかと伺
わせます。そして、これらの地の製鉄跡地と土谷さん集落あるいは土谷という地名が関係
しているという事実は、全国の土谷さんの先祖が古代の製鉄となんらかの形で関係してお
り、互いにつながりのあった一族ではなかったかという想像につながっていくのです。
最近、長野県軽井沢町の土屋さんから、軽井沢町の郷土史研究サークルの冊子を送って
いただきました。その中の一つの稿に源義経が奥州への途中に立ち寄ったという伝説を持
つこの地の熊野神社の話が載っていました。この軽井沢町は文治2年の年号が記された土
谷小太郎義忠というかたの位牌が残る地でもあります。
義経の牛若丸時代に鞍馬山の天狗に武芸を習ったという話も、その天狗というのが山の
民である産鉄族を指しているとすれば納得がいきます。鞍馬の火祭りという祭りが今に伝
わっていますが、テレビのニュースで、その様子を見た私は、あれはまさに産鉄族の祭り
だ、たたらの火だ、と直感しました。
大分県の土谷さんの多くが藤原氏の末裔であるとし、藤原鎌足からつながる系図を残す
ところがあることと合わせて、大変に興味深いことだと思います。石川県金沢市の「芋掘
り藤五郎」の「藤」は、藤原氏の「藤」だとされていますし、東北地方の「炭焼き藤太」
の「藤」も同じだと考えられます。藤原鎌足も近畿の山城の生まれでなくて、現在の茨城
県鹿嶋市の生まれであるという伝説も残るそうで、この鹿嶋の地も古代において常陸国の
製鉄産業の中心地とされる場所です。
このように見てくると、産鉄族ネットワークという視点から、義経を九州に先導しよう
とした緒方維栄の配下に豊後の土谷がおり、吉野山から奥州に向かう途中に立ち寄った軽
井沢にも土谷がおり(この土谷さんの始祖は上総の出身とされています。)、そして弁慶屋
敷跡が残る岩手県江刺市田原の土谷という地名と隣の水沢市に土谷さんの集落が残り、弁
慶が生まれた出雲の古代製鉄跡近くに土谷さんが残り、というようなことの中に、何かの
つながりを見出せそうに思うのです。
(4) 土谷と麻生、そして菅生
土谷さんメール新聞第4号の「(8)鉱山開発と土谷」の中で、大分県三重町の神田さ
んの従者として共に逃れてきた土谷さんと麻生さんについて書きましたが、谷川さんは「民
俗、地名そして日本(同成社)」の中で、この「麻生(あそう、あさお)」というのは砂鉄
を意味する言葉と関係があるのではないかとしています。また、日本書紀の中に、鉄が出
ることと菅が生まれることとが並べて書かれている箇所を取り上げて、「菅生」というの
も鉄と関係があるとしています。
麻生さんは「金田」に住み、土谷さんは「菅生」に住んだという三重町の現実、そうな
ると、神官の「神田(かんだ)」さんは「金田(かんだ)」を意味しているのではなかろう
かと考えてしまうのです。
さて、この土谷と麻生ですが、共に大分県と福岡県に非常に多く、特に麻生姓について
は全国の5分の1の麻生さんが大分県に住んでいることが電話帳データからわかります。
そして、全国の県別の分布を見ると、土谷さんと麻生さんの分布は非常によく似ているこ
とがわかります。今回、大分県からは遠く離れた秋田県の場合について、麻生と土谷につ
いて調べてみました。秋田県平鹿郡十文字町は、大分県西国東郡真玉町と並ぶほど、多く
の土谷さんがおられます。大字単位での集計では十文字町睦合は国内でもっとも土谷さん
が多いところです。
土谷 麻生 土谷 麻生
秋田県秋田市 18 13 秋田県平鹿郡 54 3
秋田県能代市 1 0 増田町 (3) (1)
秋田県本荘市 2 0 雄物川町 (2) (0)
秋田県横手市 2 1 十文字町 (43) (1)
秋田県湯沢市 6 16 山内村 (6) (0)
秋田県鹿角市 1 0 平鹿町 (0) (1)
秋田県男鹿市 0 1 秋田県雄勝郡 23 141
秋田県南秋田郡 0 2 羽後町 (8) (40)
秋田県由利郡 0 12 東成瀬村 (15) (0)
稲川町 (0) (80)
皆瀬村 (0) (21)
秋田県の土谷さん、麻生さんは、共に県南東部に集中しており、特に雄勝郡、平鹿郡に
多いことがわかります。麻生姓の最も多い稲川町と土谷姓の最も多い十文字町は、雄物川
の支流になる皆瀬川の上流と下流の関係になります。また、土谷さんの多い東成瀬村は、
皆瀬川の支流の成瀬川沿いにあり、十文字町の上流の田子内というところです。この田子
内のすぐ下流には「菅生田」「菅生」という地名が見えます。これらの地域で古代に製鉄
のための砂鉄が採取されていたり、炭を焼くための木が切られていたりとかいうことがな
かったか、また下流のどこかで製鉄が行なわれた場所がなかったかなどがわかると、もっ
といろいろと見えてきそうです。この地域から北西の本荘市に土谷という地名があります。
ここも古代の製鉄跡が見つかっています。また、東に行くと岩手県江刺市に土谷という地
名があります。弁慶の屋敷跡が残るところです。
大分県三重町では、大野川という川沿いに菅生、その少し上流に金田があり、菅生に土
谷さんが、金田に麻生さんが小さな集落をなしています。また、そこから10〜20キロ
ほど南西のところに、かつて土谷という地名があったことが三重町誌からわかります。ま
た、土谷と菅生の中間地点あたりの内山という場所に蓮城寺という天台宗の寺があり、「炭
焼き小五郎」伝説の黄金の亀が浮いて出たという金亀ヶ淵と呼ばれる池があります。この
寺の上流にも別の土谷さんの集落がありますが、こちらは未調査です。
大分県と秋田県とで、土谷、麻生、菅生、という姓や地名があり、共に古代製鉄と関係
しそうだということに大変に興味を覚えます。同様のことが、関東、中部、北陸、山陰、
山陽、近畿、などの土谷さん集落の周辺地域で見られるように思えます。今後、それぞれ
の地域についても調べていきたいと思います。
(5) 殿様から与えられた土谷姓
土谷さんメール新聞第1号で紹介したように、後の江戸幕府初代の金山奉行に任じられ
る大久保長安は若いころに武田信玄に「土谷」という姓を賜ったとされています。以下、
「野史」という書物からの引用です。
「大久保長安。甲斐人也。・・有寵於武田信玄。得入仕籍。冒族土谷氏。・・」(野史第
四巻:明治9年5月9日版権免許/昭和5年3月25日第三版発行/日本随筆大成刊行会)
これとほぼ同じ時代に山口県須佐町で殿様から「土谷(つちたに)」という姓をもらっ
た例が見つかりました。
(参考ページ)
「初め田原道仙と称し肥前国唐津に於て、開窯しましたが事情あって諸国遊歴に旅に出
て桃山時代長門国須佐郷に至り此処に永住の目的で窯を築きましたる処、その作陶は怱ち
にして領主益田候の賞翫を蒙り藩の御用窯として取立てられ特に土谷(つちたに)の姓を
賜って土谷鹿郎衛門と名乗り須佐唐津焼の名を世に広めるのにいたったと伝えられており
ます。」
なお、この須佐町の地名の由来が、須佐之男命が朝鮮半島(当時新羅)に往来したとき、
近郷に比類のない高山に登り海路をのぞんだので、神山(昔は高山を神山と書いた)の所在
地を須佐と呼んだと伝えられているというのも、産鉄族との関連で興味深い話ですが、今
回はこの話題については調べませんでした。
この2例しか見つかっておりませんが、ほぼ同時代に甲斐と周防において武田、益田と
いう領主が「土谷」という姓を賜ったということに意味を見出そうとしてしまうのです。
現時点で、私は次のように考えています。
大久保長安の場合は、鉱山開発、特に金山の開発に貢献したということで「土谷」氏を
賜り、田原道仙の場合は、陶芸の腕を認められて「土谷」姓を賜ったということですが、
共通点は「土」と「火」だと考えたのです。古い時代の製鉄では一回きりの炉を作るため
に大量の粘土を必要としますし、火を起こすための炭を必要とします。陶芸においても粘
土と薪は欠かせません。こうした粘土・砂鉄・炭・薪などを扱う人たちの集団としての「土
谷」という姓が、桃山時代にも残っていたのではないかと考えたのです。あるいは、伽耶
や百済などからの渡来人に与える姓であったかも知れません。大久保長安の先祖も朝鮮半
島から連れてこられた鉱山技術者であるとする説がありますし、唐津焼をしていた田原道
仙についても、唐津焼が朝鮮半島から伝えられた陶芸であることを考えると可能性は高い
と思います。
秋田県十文字町で系図が伝わる土谷さんについても、他の姓から桃山時代ごろに土谷姓
に変わったとする記述があるそうで、理由は書いてないそうですが、同じように殿様から
もらったという状況があったかも知れません。
(6) 「谷」を「や」と読む読み方
ただ、「〜〜谷」という地名が日本列島の西半分に圧倒的に多く分布する中で、読みの
違いでの分布を見ると、関東地方に「〜〜や」と読む地名が集中していることについての
説明は、土谷のルーツを探す上で重要なことだと思います。「谷戸(やと)」「谷津(やつ)」
「谷地(やち)」などという言葉と「谷(や)」とは同源と考えられ、こうした言葉の語源
が明らかになることで土谷についても何らかのことが分かってくると思われます。
今回の第5号をまとめるにあたり、韓国語の研究者のかたにメールを出して、「谷」を
「や」と読むような読み方が韓国語になかったかどうかを尋ねましたが、答えは否定的な
ものでした。この読み方の起源は別のところに求めるべきかも知れません。ただ現実とし
て、地名を見る限り、ある時代に関東地方に特別に起こった読み方であることは間違いな
いことでしょう。
鎌倉時代初期に桓武平氏からでた「土屋」という姓について、関東から中部、関西にか
けて広く分布することになりますが、現在の土屋姓の分布の中心地は、「谷」を「や」と
読む範囲と重なります。こうしたことも「土屋」と「土谷」が同じ読みでなおかつ感覚的
に違いを感じない風土になっていたのでしょうか。
私が自分の名刺をお渡ししても、2割を越えるくらいのかたから、宛名に「土屋重幸」
と書いた手紙や書類をいただきます。関東出身のかたにその傾向が強いと感じますが、統
計を取ったことはありません。
土屋政一さんというかたによる「土屋氏族の歴史(後篇)」の327ページ、「江戸時代
の著名な各界土屋氏人」という項目の中に、「土屋温斎」という人物が紹介されています。
明治人名辞典という書物からの引用だと記されています。この温斎は「土谷温斎」が正解
で、一橋大学の「西川孝治郎文庫」の中に彼の著書が何冊か収められています。
(参考ページ)
この例のように、公になっている辞典類にも土屋と土谷の混同は多く見られます。(5)
で触れた、大久保長安が武田信玄から賜った姓についても「土屋」であるとする辞典も数
種類見られますし、土屋政一氏の書物でも「土屋」という姓を賜ったとしています。時代
物の小説の中などでも土屋としているものがあります。土谷としている小説は読んだこと
がありません。武田信玄の家臣には多くの優秀な土屋姓の武将がいましたので、無理のな
いことでしょう。関東、中部地方において、特に「土屋」と「土谷」の混同や同化が強く
起こってきたように思われます。
そうした中にあってもなお、「土谷」とした史料が残っているのは、「土屋」の書き誤り
などではなくて、逆に間違いなく「土谷」であったことを示していると考えるのですが、
どうでしょうか?そして、土谷は土屋よりも古くからあった姓かも知れないとさえ考える
のです。
(7) 秦氏と漢氏
岡山県から広島県にかけて、古代の製鉄がさかんに行なわれた地域があります。「古代
日本と朝鮮・中国(直木孝次郎著:講談社学術文庫)」という本に、正倉院文書の「備中
国大税負(たいぜいふ)死亡人帳」などの史料を基に、興味深いことが書かれています。
この直木さんによると、吉備地方の古代戸籍史料は他の地域に比べてよく残っているので
この地域を調べたとしています。
結論だけを引用すると、「吉備の製鉄に限っていえば、まず早い時期に秦氏系の人びと
によって備前・美作で製鉄が開発され、第二の時期には漢氏系を主力とする人びとによっ
て備中の製鉄が開発され、第三の時期には律令政府のもとで技術の伝習がおこなわれ、秦・
漢系の人でなくとも製鉄が可能になり、そうした人びとの手で備後の製鉄が進められた、
と推定できる。」ということです。
さらに、備中については製鉄だけでは説明しきれない部分がある、として、秦氏はヤマ
ト政権との関係はそれほど深くなかったが、漢氏は政権との関係が深い一族であったと、
これも史料をあげながら説明しています。藤原氏と漢氏との関係はどうだったかなど興味
がわきます。
また、地名に関して、賀夜郡は、加夜、賀陽、香屋、蚊屋など各種の表記があること、
カヤの地名は朝鮮南部の伽耶(加羅、駕洛とも書く)からきたとする説がある、と紹介し
ています。備中国以外に他にカヤという地名として、但馬国気多郡賀陽郷、筑前国志麻郡
加夜郷、出雲国神門郡朝山郷加夜郷などをあげ、いずれの地も新羅と関係が深いことを指
摘しており、「伽耶からの渡来者のあったことを伝えるものではないが、どのカヤの地も
朝鮮と関係の深い地に隣接している。立地をみても、日本海や朝鮮海峡に面する海岸に近
く、朝鮮の人びとの渡来しやすい地である。備中の賀夜郡を含めこれらのカヤの地が、南
朝鮮の伽耶の人びとの渡来によって生じたとする説は、あながちに否定できないと思われ
る。」
こうしたことから、吉備地方の古代製鉄は、備前、備中、備後、へと移り変わっていき、
備前では秦氏を中心とした製鉄が、備中では漢氏を中心とした製鉄が、そして備後では、
より一般的な人たちも参加しての製鉄が時代と共に展開していったようなのです。
ちなみに岡山県の現在の土谷姓の分布を見ると、79件の内訳は、岡山市27、玉野市
3、倉敷市14、総社市2、矢掛町1、吉備町2、高梁市5、新見市1、哲西町3、成羽
町9、笠岡市9、鴨方町2、里庄町4、となっており、県西部つまり備中に集まっている
ことがわかります。なお、「土谷(つちたに)」という地名が柵原町にあります。これは備
前・美作地域になりますが、この近くには土谷姓は見られません。
この吉備地方の話を読むときに、豊後の宇佐神宮のことに触れたくなります。
「河野禰宜さんは最初に、簡単に八幡神の出現について、次のように話して下さった。
『いまから千四百年ほど昔のこと、八幡神は最初は鍛冶屋のおじいさんの姿で現れ、人が
三人来れば三人殺し、五人来れば五人殺しということをやっていました。また、ここから
1キロほど西の方角の鷹井神社にも八幡神が現れ、やはり同じことをやっていました。
そこへ大神比義(おおがのひぎ)がやって来て、辛島勝乙目(からしますぐりおとめ)
という女性のシャーマンといっしょになってこの荒々しい神様の働きを鎮め、八幡神とし
て祀るようになったのです。』」(攘夷の韓国、開国の日本:呉善花(o son fa)著/
文春文庫)
辛島氏はこの後、宇佐神宮の禰宜の役目を務め、大神氏も同様の立場を務めることにな
るそうです。辛島氏の「辛」は「韓」であるとするのが一般的だそうで、秦氏であろうと
もされているのだそうです。
私は、大神氏は漢氏ではなかったかと考えるようになっています。そして、八幡神が鍛
冶屋のおじいさんの姿で出現したというのは大変に意味深で、この地にもともと入ってい
た産鉄族(おそらく秦氏系)のあとから別の産鉄族(おそらく漢氏系)が乗り込んで来た
ことが言い伝えられているのではないかと思うのです。そして、宇佐氏というのも古くか
ら宇佐神宮に関わった氏族として知られ、大神、辛嶋氏二氏はそれぞれ、神宮の創祀譚を
持っていて、辛嶋氏は宇佐氏と、大神氏は辛嶋氏と共に神宮を創祀したとしているそうで
す。これについて、宇佐氏の原始磐座信仰へ、辛嶋氏のシャーマニズムが持ち込まれ、そ
の上に大神氏の譽田別の八幡信仰が重なったのである、とする説があるそうです。ここで、
(1)で触れた「本牟智和気(ほむつわけ)」が「譽田別」として登場していることに注
意する必要があると思います。
宇佐氏と大神氏の大宮司の地位争いが、その後続くことになり、元暦元年(1184)
年7月の緒方維栄による宇佐神宮焼き払い事件へとつながっていくのではないかと考える
のです。また、鉄生産に関して秦氏を追いやった漢氏は、近畿に進出し、大和政権の中枢
にまで進出していったのではないかと思うのです。大分県真玉町大岩屋の土谷さんの遠い
先祖は、宇佐神宮を創った人たちだと伝えているそうです。土谷は大神氏の末端にいたの
ではなかったでしょうか。そして、八幡神を祀り宇佐神宮を創ったとする大神氏のことを
この地の土谷の先祖は伝えたのではなかったでしょうか。
(8) 伽耶について
以下、ホームページからの引用です。
「日本の場合、4世紀に至っても伽耶から鉄を輸入して使っていました。それは当時の
日本では鉄を生産できる技術がなかったためです。しかし、皮肉なことに伽耶土器系統の
須恵器が日本で生産される 5世紀から、日本は自ら鉄生産を始めています。このような日
本の変化は単純な偶然の一致だけなのでしょうか?その頃 日本で発掘された鉄板は伽耶
の鉄板と全く同じ規格、同じ形態を見せています。その上、兜のような 戦争用遺物も伽
耶と同じ形なのです。」(引用元)
「古代房総における馬の生産について、『延喜式』のなかに、「上総国大野馬牧」なるも
のが載せられており、兵部省の管轄下に馬を放牧する官営の草原があったのでしょう。古
代日本には馬を飼う習慣や技術はありませんでした。これを大陸から伝えたのが帰化人た
ちです。弥生時代後期から古墳時代にかけて、馬やそれを操る技術を持った大陸の人々が
日本に移り住んできました。『日本書紀』にも百済王から馬を送られたとの記述ものこさ
れています。朝鮮半島で紛争が激化して、亡命する人たちが日本にやって来ると、朝廷は
彼らを未開地に移住させて開墾を促しました。和銅4(711)年、上野多胡郡(多くの異
国人の郡という意味か?)が帰化人のために新設され、その5年後の霊亀2(716)年、
全国にいた高句麗の人々を、武蔵国の開墾に当てるために武蔵に召集し、彼らのために高
麗郡(高句麗の人々の郡?)を新設しています。彼ら帰化人が東国に伝えたものは馬の技
術、須恵器、瓦、織物、紙などがありますが、製鉄技術を持った人々もおそらくいたでし
ょう。馬と鉄は切り離せない関係にあります。馬の蹄鉄は鉄の技術がなければできません
し、轡も然りです。馬の技術は、当時地方に勢力をのばしていた地方豪族たちや、在庁官
人のなかに取りこまれていき、のちの東国における武士団の成長に関わっていったのでし
ょう。平将門や平忠常があっという間に房総や周辺国を制圧したのも、馬の機動力の賜物
です。
それから、妙見信仰と畿内帰化人との関係ですが、奈良時代末期・称徳天皇のころ、河
内国安宿郡内に妙見菩薩を祀るお寺が造られました。現在の大阪府南河内郡にある天白山
妙見寺とのことです。妙見信仰は帰化人によって伝えられた、道教・仏教思想に基づく信
仰で、帰化人との結びつきが顕著に見られるものです。古代の関東では、彼らによってさ
まざまな技術が伝えられていきました。馬の生産地と妙見信仰の広まった地域(信州から
上野にかけて)はほぼ一致していますから、秦氏を含めた帰化人たちは、上野から信濃の
あたりに散らばったのではないでしょうか?「馬」「鉄」「帰化人」は1つの枠にひっくる
めて考えてよさそうです。」(引用元)
三重町の菅生八幡神社の神官の神田さんに伺った話では、平安時代末期に先祖がこの地
に来たときに土谷と共に従ってきた麻生家では、昭和の初期のころまで、毎年正月には「か
や(茅)」で箸を作り、それで食事をしていたということです。先祖が山道を苦労して旅
をしてこの地に来たことを偲んでという風に言い伝えられているそうですが、私はこの「か
や」は、「伽耶」ではなかったかと考えています。遠い先祖が海を越えた「伽耶」の国か
ら来たことを、「かや」の箸に託して子孫に伝えようとしたメッセージではなかったかと。
(9) おわりに
まとまりのつかないメール新聞になってしまいましたが、この1年間の調査とまとめを
通じてわかったことの全てをまとめることができなかったことが残念です。現在の土谷さ
んの分布は全国に広がっていますが、それぞれの地域において調べると、ある特定の狭い
場所に集中しているように見受けられます。そして、ほとんどの地域で、10数キロほど
の範囲の中に麻生さんの集落も見られるのです。さらに、古代の製鉄跡、もしくは製鉄に
関係した地名、あるいは製鉄に関係した民話などが近くに残っているのです。北海道など、
比較的最近になって定住したと思われる場所を除いて、ほぼ例外なくこうした状況がある
ように見えます。こうした状況証拠を積み重ねていく中で、土谷さんの先祖について、見
えてくるのではないかと考えていますが、できれば文書や遺物など具体的に証明できるよ
うなものが出てくることを非常に強く願っております。
来年は21世紀になります。新しい世紀において、土谷の先祖についての新しい発見が
出てくることを期待しつつ、今年の報告を終わらせていただきます。
連絡先:
〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
電話・FAX:093−617−1774
電子メール :shige@tsuchiya.com
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土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com http://www.tsuchiya.com/
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