土谷さんメール新聞     第6号
                           2001年3月10日発行
(1) 大山祇命
 左の写真(クリックでカラー画像表示)は、大分県西国東郡真玉町三畑の土谷家に 伝わる掛け軸です。左下の署名は「正四位下 宇佐 公悦謹書」と書かれています。この宇佐公悦は宇佐 神宮の大宮司を務めた人で、
「到津家歴代系譜」によると、

  生年:宝暦 2年      (1752年)
正四位下:寛政 2年 5月17日(1790年)38歳
 従三位:文化10年10月22日(1813年)61歳
   没:文政 4年 9月22日(1821年)69歳

と読み取ることができます。つまり、38歳から61歳まで の23年間の間、正四位下の地位にいたわけで、この期間の どこかで三畑土谷家の掛け軸に残る文字を書いたと思われ ます。三畑土谷家系図の中でこの時代に生きた人は、

 土谷新三郎(吉継) 文化13(1817)没
 土谷民助(頼継)  天保 4(1834)没
 土谷清治(則継)  明治12(1880)没年78

ということですから、新三郎あるいは民助が頼んで書いて もらった可能性が高いと思われます。
 さて、この三畑土谷家では「大山祇命」を代々大切に 祀ってきたと思われるのですが、その始まり近くと深く 関わりがあると思われることが「西国東郡誌」(大正 12年発行)に記載されています。以下、第十六章 第十一節 村社一覧表から引用。
 名称:山神社 祭神:大山祗命 鎮座年月:延暦九年(790)
 由緒の梗概:鼓カ岳に神石二つあり。之を二タ神と 唱え奉斎す。享禄八年(1535)、土谷次郎三郎両社を 再建。明治五年村社に列せらる。
 神社所在地:上真玉村大字黒土字三畑龍ケ谷

 このことから、約460年前に「土谷次郎三郎」という 人物が、古くからあった「山神社」を再建したらしい ことが窺えます。この土谷次郎三郎について、三畑 土谷家に、天文17年(1548)三月十三日の日付で 「足駄木金師 土谷次郎三郎 吉継」という名前 で、足駄木地区の開墾の様子を書いた文書が残されていることから、同じ人物であろうと 思われます。この「金師」という呼び名は、大分県立歴史博物館の紀要(2000年3月 発行)の記事において、土谷一族が鉱山技術者ではなかったかと推論する根拠の一つとし ています。
 また、この三畑土谷家が本家としていた小河内土谷家についても「大山神社」と呼ばれ る大山祇命を祭神とする神社を守ってきました。同じく西国東郡誌からの引用です。
 名称:山神社 祭神:大山祗神外五柱 鎮座年月:文安年中(1444〜1449)
 由緒の梗概:不詳。明治五年村社に列せらる。
 神社所在地:上真玉村大字黒土字小河内

 この大山神社の鳥居のそばにある宝篋印塔(永正13年[1516]の銘あり)は、この 地の土谷の始祖土谷三郎持継の墓であるとされています。これ以外にも、豊後高田市玉津、 美和、真玉町西畑、有寺、香々地町小畑など、この近隣の土谷さん集落にはほとんど大山 祇命を祀る山神社があり、この一族にとって古くから特別な信仰対象であったことがわか ります。また、これら以外にも大きな神社の境内社として合祀されることになったものも あり、香々地町小畑の門出(もんで)という地域にあった山神社と稲荷社は1キロほど離 れた秋葉神社の境内に移されたという記録(香々地町誌)が残っています。この門出とい う地域は私の直系の先祖が古くから住んでいる地域です。
 大分県には他の都道府県に比べて、神社の全ての種類に占める山神社稲荷社の比率が高 い傾向があり、県内の多くの地域でこの傾向が顕著に見られます。以下、「大分県の神々」 (高野三郎著)から、大分県内の神社のうち、職能神統計表を引用します。

穀物
(稲荷)
同祖 日吉 住吉 金山彦 その他 合計
西国東 153 112 76 21 13 17 7 4 12 25 55 495
大分 147 101 61 70 10 28 20 15 2 3 37 494
宇佐 140 198 208 71 29 26 18 11 5 3 31 740
下毛 133 126 126 8 17 9 5 6 3 0 18 451
大野 121 110 66 113 28 11 16 7 17 4 56 549
速水 90 30 26 16 7 2 5 8 2 2 16 204
東国東 86 30 49 23 10 5 6 12 2 3 19 245
直入 67 56 50 25 16 3 4 3 8 1 42 275
北海部 41 44 10 32 3 9 3 2 8 0 17 169
南海部 40 60 13 41 12 15 1 7 7 5 18 219
日田 19 56 17 6 4 1 2 1 3 6 14 129
玖珠 7 5 4 3 1 0 3 0 0 0 4 27
合計 1044 928 706 429 150 126 90 76 69 52 327 3997

 このことからわかるように、西国東郡、大分郡、宇佐郡、下毛郡、大野郡、の順で山神 社が多いことがわかります。ただし、山神社の全てが大山祗神を祀っているわけではない ので、参考程度にするべきでしょう。また、電話帳から調べた大分県内の土谷さんの件数 を上記の表と同じ地域別に表にしてみました。
  西国東郡 193(豊後高田市89、大田村1、真玉町83、香々地町20)
  大分郡内 125(大分市66、別府市54、挾間町4、湯布院町1)
  大野郡内  39(野津町2、三重町34、清川村2、犬飼町1)
  東国東郡  39(国見町22、国東町8、武蔵町1、安岐町7、姫島村1)
  宇佐郡内  12(宇佐市12)
  速見郡内  12(杵築市6、日出町5、山香町1)
  下毛郡内  10(中津市10)
  南海部郡  10(佐伯市9、上浦町1)
  北海部郡   4(臼杵市3、津久見市1)
  日田郡内   2(日田市2)
  玖珠郡内   2(九重町2)
  直入郡内   1(久住町1)

 これらを町村単位で地図上に分布表示したものが以下の図です。山神社の上位2地域と 土谷さんの分布の上位2地域が重なることがわかります。


(2)大山祇神社と伊予河野氏
 愛媛県大三島にある大山祇神社は、「日本総鎮守」として知られており、大山積神は伊 予の河野氏の氏神とされています。大三島のほぼ中央部にあり、祭神の大山積神は人々や 水軍などの信仰を集めてきました。鉱山や林業などの山の神や農業神も兼ね、分社は全国 に一万三百余あります。平氏や源氏の著名な武将が奉納したものなどを含め、鎧(よろい) や刀剣などの武具類では全国の国宝、重要文化財の八割を収蔵しているそうです。
以下、その由緒。
日本総鎮守 大山祇神社由緒(愛媛県越智郡大三島町)
 大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位して大小の 島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座し ている。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
 天孫瓊々杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の 擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であら せられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総 氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。
 大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命が先駆者と して伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である 御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。
 本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般 の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には明神大社に 列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。 現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古の昔に変わらぬ崇敬を寄 せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類 を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。
(参考文献:大山祇神社パンフレット「大三島」 著作・発行:大三島宮 大山祇神社社 務所)

 1999年10月11日に尾道市で、「しまなみハイウェイ」の開通を記念したシンポ ジウムが開催され、その中で興味深いディスカッションがなされていました。現在インタ ーネット上で開催中の「インパク」ホームページで紹介されています。 (シンポジウム

講演者:森  浩一氏(同志社大教授:考古学)
    沖浦 和光氏(桃山学院大名誉教授:比較文化論、社会思想史)
    藤井  昭氏(広島女学院大教授:日本文化史、民俗学)
発言要旨:
森  大山祇神社の信仰と、大三島に住んでいる人々は分けて考えないといけない。中国 の南方、江南地方の人々のことを越人(えつじん)と呼ぶ。大三島周辺の海域を支配 していた豪族の越智氏は、江南地方とかかわりが深い。奈良時代の初め、漢字一字の 地名を二字にすることが流行し、名前も「越」と書いていたのを、「智」を付けて「越 智」と書くようになった。一方、伊予の国(現在の愛媛県)の風土記に、大三島がも ともとは摂津の国の三島(現在の大阪府高槻市周辺)のことだとある。摂津の三島で 祭られている神様は、百済から渡ってきた航海の神。大三島の文化的基盤は、中国の 江南地方や南方とつながりがあるけれども、大三島の伝承に関しては摂津、百済とも つながりがある。
沖浦 村上水軍は(中世伊予の豪族)河野氏の一翼。河野氏をさかのぼると(古代の)越 智水軍にたどりつく。この水軍の系譜、つまり大山祇神の系譜はどうも、南から入っ てきた最も戦闘的な集団の隼人系ではなかったのか。斉明天皇が白村江の戦い(六六 三年)に出るとき、伊予の熟田津に足かけ三カ月、船を止めているが、正規の朝廷の 水軍である九州の宗像系とか阿曇系で足りないので、越智水軍を募集したのではない か。しかし、これは正史には出ない。
   伊予風土記に大山祇神は百済から来たとあるが、より古い古事記の「もともと南九 州にいた」という記述を重要視したい。航海神としての大山祇が九州 から入って瀬戸 内海から淀川をさかのぼり、摂津に祭られたのではないか。
   大三島の大山祇神社には、神木とされているクスノキの巨木が目立つ。この地域の 人々は、古代からクスノキを用材にした造船術に優れていた。古代に、この海域を支 配した越智氏が大山祇神社の神職を継ぎ、そこから分かれた河野氏が芸予諸島の政治 的支配権を受け継いだ。
藤井氏 尾道から北へ六十キロほどの広島県双三郡や比婆郡、神石郡では、今でも大田植 えが行われている。神仏混合で、神主さんとお坊さんが壇上で祝詞を読むが、神主さ んは「オオヤマツミノカミ」を祭っている。備後の神社の神主さんは、「オオヤマツミ ノカミ」を豊作祈願のために祭る。瀬戸内海では海の神として、中国山地に入れば農 業神としての面があるようだ。
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 これらの方々の発言を読むと、細かく言えばいろいろと説が分かれるようですが、「オ オヤマツミノカミ」を祀っていた河野氏は、百済、または中国の江南(越)に起源を持つ 一族だと考えられるようで、古代において摂津の三島にもその拠点を持っていたようです。 この三島というのは、現在の大阪府吹田市、茨木市、高槻市あたりの地域です。この地は、 中臣氏の古代に於ける勢力の中心地でもあったようで、藤原氏と河野氏のつながりを感じ させます。
以下、追手門学院大学のホームページからの引用です。
「すでに弥生時代のところでも述べたが、東奈良遺跡は青銅器の鋳造場であった。また、 その東の千里丘陵一帯は、渡来系土器の須恵器の窯跡が多数残されていることでも有名で ある。さらに高槻市には、大規模な埴輪の窯跡も発見されている。そもそも鎌足は別名を 鎌子というが、カマタリにせよカマコにせよ、そのカマは高熱処理技術の窯に由来すると 考えられる。さらに鎌足の山科の家は、「陶原」にあり、陶原の名は須恵器の作製にちな んでいる。
 このように中臣氏の原像は、三島地域の高熱処理関連集団の統率者であり、ことに仏教 にともない新しく展開した高熱処理技術を背景に、のしあがった氏族である。それが皇族 の養育に関連し、皇族の母系氏族として優勢であった蘇我氏を打倒することで、政界の主 流に位置することになった。
 最後に、藤原=中臣氏の祖先神は「天児屋(あめのこやね)」というが、この「コヤ」 は島下郡の郷名であり、藤原=中臣氏の本拠が三島にあったことは疑えないことを付言し ておきたい。」(引用先

 ちなみに伊予の河野氏は、愛媛県北条市にある高縄山の麓の「河野郷」に住んだことか ら、河野を名乗るようになったということです。また、伊予の河野氏が歴史に登場するの は河野通清が源頼朝の旗揚げに間を置かず、旗を上げたことから始まります。豊後の緒方 維栄が同じころに反平氏側に回って歴史に登場するのと状況がよく似ています。

(3)河野氏と豊後、そして鉱山
 大分県南海部郡宇目町に木浦鉱山という古くから知られる鉱山があります。この地に伝 わる文書に以下のようなものがあるそうです。
 日本に未だ銀山なき事を憂いて、当木涌山の元祖伊予国の住人河野次郎金久弟 正大輔、国々を巡見、銀山の掛出しす(掛出探見)。時に当所(木浦山)松の木 平に野宿し待ちけるに、時至って白銀火の中より流れ出ず。神の託宣あって灰吹 の仕法を知る。 依って『天道吹』と名ずく。即ち参内して奏聞し奉り、天下の 宝となす、依って三位に任ぜられる。此度、太平山に於て、新たに錫(すず)山 を開かれたり、なお吹き方次第の工夫は全く神の恵みなくんば、出来すべけんや。 諸事銀山之古例によるべく、自今貴殿錫出の山先(山師)たるべし。
 依って起源を相伝候者也。

 慶長三年正月吉日
河野弾正大輔29代の孫 河野大蔵之丞金次
佐藤大勝殿

 慶長3年(1598)年にこの文書を書いた人物は「河野弾正大輔29代の孫」として おり、保元2年(1157)に河野弾正大輔によってこの銀山が発見されたという言い伝 えと符合するのだそうです。
 この、木浦鉱山は、炭焼き小五郎伝説の発祥の地である大分県三重町内山から南にわず かに20キロの距離のところであり、河野氏がこの地域一帯の鉱山開発に古い時代から関 与していたという事実は、三重町の鉱山開発とも何らかの関係があったのではないかと窺 わせるものです。
 現在の河野姓の分布を電話帳データベースで調べると、全国51,677件のうち、30%に も当たる河野さんが、大分県、宮崎県、福岡県に住んでおられることがわかります。
北海道1184栃木218石川124滋賀231岡山528佐賀109
青森65群馬222福井214京都673広島2757長崎394
岩手145埼玉1962山梨1018大阪3731山口2023熊本883
宮城169千葉1974長野460兵庫2221徳島1341大分4770
秋田22東京3323岐阜550奈良366香川621宮崎4451
山形70神奈川2462静岡737和歌山196愛媛2682鹿児島885
福島364新潟290愛知1586鳥取134高知322沖縄46
茨城1015富山41三重217島根628福岡3253

 全国47都道府県中、県別人口で44位と45位にあたる大分県と宮崎県が、河野さん の世帯数では共に1位と2位にあたるという現実は、この一族が豊後と日向に、いかに関 係が深いかを思わせます。
 宮崎県東臼杵郡南郷村には、西暦660年、百済の王族が逃れてきたという伝説があり、 数年前に建てられた「西の正倉院」には、この地に伝わる、奈良の正倉院と同じ銅鏡など が納められています。また、藤原氏の先祖の中臣氏は、九州、それもこの豊後の地が発祥 の地ともされます。
 鉱山開発という背景の中で、百済―中臣氏(藤原氏)―河野氏というつながりが、古代 豊後の地及び摂津三島の地でつながって来るように思えます。土谷一族の先祖もそうした つながりの中にあったのでしょうか。

(4)金屋子神、稲荷社
 タタラ場や鍛冶屋で信仰されている神として「金屋子神」という神があり、全国のたた ら製鉄に関係したと思われる場所にある神社に祀ってあります。金屋子神社の総本社は島 根県広瀬町西比田桂の森にあって島根県の文化財にも指定されているそうです。
 土谷のルーツを探る中で、古代の製鉄や鉱山と関係があるように思えるのですが、この 「金屋子神」とのつながりは、全くと言っていいほどでてきません。このことも一つの鍵 になるように思えます。つまり「金屋子神」を祀る製鉄一族とは異なる一族を成していた のではないかという意味においてです。土谷さんと関係のあると思える神様は、大分県で の例しかわかりませんが、「大山祗命」を祀る山神社及び「保食神」を祀る稲荷社が多い ようです。
 以下、大分県香々地町の稲荷社について、香々地町誌から引用します。現在は再び秋葉 社に合祀されています。
  稲荷社  保食神  大字小畑字門出
  一時、秋葉社に合祀されたが、後更に京都伏見稲荷を勧請して今日に至る。
   大漁祈願・商売繁昌・家内安全・紛失物再現祈願に霊験あらたかな神と
  して近郷は勿論、遠く長洲・姫島等から船での参詣者が多かった。
  殊に、旧暦三月十七日の祭礼には相撲も奉納され、大いに賑わったが
  戦後さびれた。
   臼野山畑谷との境の山頂に在り、眺望極めてよく老松巨石に囲まれ、
  高壮な石祠に正面「正一位」、背面に「大正十三年七月十七日建之
  小畑上講中」と刻す。
  一間四方の幣殿 二間×五間の拝殿がある。

 前にも書いたとおりこの「門出」という地域は私の直系の先祖が古くから住んでいると ころです。私が中学2年生の夏、初めて祖父の生まれ故郷を訪ねたのですが、着いた日の 翌朝、まずこの稲荷社にお参りに連れていかれました。この稲荷社のある小さな峠を越え た向こうが山畑という地域です。門出の土谷から歩いて30分ほどしかかからない峠の向 こうの土谷さんに伝わる山畑土谷家系図には、寿永元年(1182)に先祖が船でこの地 に着き、この村の「河野氏」に世話になったということが書かれています。伊予の河野氏 につながる河野氏だったのでしょうか。
 保食神を祀る稲荷社も古代朝鮮から来た神だとされているようですし、「いなり」は「鋳 成り」であって古代製鉄と関係のある神だとする説もあるようです。上記引用文中の「長 洲」は宇佐神宮の北約5キロの浜辺の地域であり、「姫島」は炭焼き小五郎伝説に登場す る小五郎の娘の般若姫が船で立ち寄ったため姫島と呼ぶようになったとされる、国東半島 の突端に浮かぶ小さな島です。

(5)さいごに
 真玉町の三畑土谷家において「金師 土谷次郎三郎」が再建した「山神社」は、延暦九 年(790)に開かれたという記録が残り、同じく大山祗命を祀る西畑の山神社は養老二 年六月十五日(718)開基という記録が残るそうです。この西畑も土谷さん集落が残る 場所です。
 鉱山開発において、採掘する場所を探すにあたり、古い時代の鉱山跡をまず探すのはこ うした分野では常識なのだそうです。私は、古代において朝鮮半島からこの地に渡ってき た一族の中に鉱山開発技術者集団がいて、7世紀後半から8世紀にかけて、この豊後の地 の鉱山開発を行ない、その際に大山祗命を祀る山神社を開いたのではないかと考えてみま した。その後、その一族は瀬戸内海を通って、四国、中国、近畿へと上り、さらに関東、 北陸、東北へと広がっていったのではなかったかと。
 戦国時代になって、国内のあちこちで武器の需要が増え、家来を養うための財政を賄う ためもあって、鉄や金の発掘需要が増し、全国の戦国大名がこぞって鉱山開発に乗り出し た。その時代に関東、おそらく武田氏が治める甲斐を中心に集まっていたと思われる土谷 一族は、古代の鉱山開発の場所に関しての情報を持っており、各地の大名の要請によって 全国に散らばっていった。そして鉱山を探すために、古代に先祖が建てた山神社を頼りに 効率的にその場所を見つけることができ期待に応えることができた。特に先祖の出発の地 である豊後には、もっとも多くの土谷一族が移住してきた。そんな空想をしてみたのです。
 「谷」を「や」と読むのが関東起源であることを考えると、「土谷(つちや)」と呼ぶよ うになったのは関東であろうと思われます。大分県の三畑土谷家や大岩屋土谷家に伝わる 記録や言い伝えによれば、源頼朝から土谷姓を賜ったということです。しかし、私はもし かすると武田信玄が若き日の大久保長安に「土谷」という姓を与えたのが最初だったかも 知れないと考えています。16世紀中ごろのことです。それが全国の一族の間にすぐに広 まったのではないかと。それ以前は、別の名を名乗っていたのではなかったかと。

 5月に宇目町の木浦鉱山跡を訪ねていく予定にしています。今年の1月に江戸時代後期 の金属精錬跡が見つかったそうで、5月ごろだとその見学もできそうだということです。 そして、三重町の炭焼小五郎伝説の発祥地にも訪問したいと思っています。

 電子メールで受け取っているかたについては、先に「号外」で、土谷又蔵と土谷温斎に ついての記事をまとめる予定とお伝えしましたが、鶴岡市役所や山形放送から何の返事も 来ないため、次回以降に持ち越すことにし、昨年から温めていた今回の記事になりました。 ご了承下さい。

【お願い】
 みなさんのお近くで、「山神社」「稲荷社」についての話がありましたら、ぜひお寄せく ださい。近くの神社に「オオヤマツミノカミ」(山祗、山積、山祇、山津見などの漢字が 当てられます)や「保食神(ウケモチノカミ)」を祀っているところがありましたら、そ れについての情報もです。「山神社」や「稲荷社」は、境内社としてひっそりと人知れず 境内の隅に祀られていることも多いようです。近所のお年寄りに話を聞かれるとわかるか も知れません。
 どうかよろしくお願いします。

連絡先:
 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
   電話・FAX:093−617−1774
   電子メール :shige@tsuchiya.com
2001.3.10  土谷重幸

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土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com http://www.tsuchiya.com/