土谷さんメール新聞     第7号

                           2001年6月20日発行

  1. 大和川と土谷さん
  2. 大分

    9.995

    奈良

    3.467

    和歌山

    3.280

    秋田

    2.867

    石川

    2.489

    北海道

    2.471

    福井

    2.449

    島根

    2.167

    群馬

    1.871

    山形

    1.748

    福岡

    1.530

    長崎

    1.410

    岡山

    1.277

    富山

    1.260

    岩手

    1.251

    メール新聞第4号でも紹介しましたように、全国の土谷さんの分布を県別の世帯数割合で見ると大分県が断然一位なのですが、これを表にしてみました。右下の表は、電話帳データベースから検索した件数をそれぞれの県10,000世帯に対して何軒の土谷さんが掲載されているかを表にしたものです。大分県に続いて奈良県、和歌山県が続いています。今回のメール新聞では、奈良県に焦点を当ててみようと考えました。そこでまず、奈良県およびその周辺で土谷さんが集まっている地名をまとめてみました。

    【一つの大字に7軒以上】

    大阪府  堺市栂       25(ツチヤ)

    奈良県  王寺町畠田     17(ツチヤ)

         御所市楢原      7(ツチヤ)

         香芝市上中      7(ツチヤ)

         桜井市上之庄    13(ツチタニ)

         北葛城郡當麻町尺土 11(ツチタニ)

    和歌山県 和歌山市本脇    10

         海南市阪井      9

    【同じく5軒以上】

    大阪府  平野区長吉      5

    奈良県  王寺町本町      6

    和歌山県 伊都郡かつらぎ町宮本 5

         海南市椋木      6

    兵庫県  川西市平野      5

         篠山市殿町      5

      ****************

    これらの地域を、地図上にプロットしたのが右の図です。大きなグレーの丸が7軒以上、小さな黒丸が5軒および6軒が集まっている場所です。奈良県内のポイントは、大和川とその支流に沿って分布しており、桜井市は「ツチタニ」さん、王寺町は「ツチヤ」さんなど、地域による読みの違いが見られるのもこの地域の土谷さんの特徴です。

    全国でも、ある程度の広がりを持った地域にこれだけのポイントが集まっているのは大分県と奈良県だけです。右は、大分県の地図です。奈良県に比べて、分布の拡散がそれほど進んでいないような状況を見ることができます。

    全国では、北海道札幌市に小さな地域的集中が見られるのを除くと、ある程度の範囲の地域でのこうした集中は見られません。こうしたことから、奈良県とその周辺、及び国東半島とその周辺が、土谷さんのルーツにとって重要な地域ではないかと思われます。

    特に奈良県については「土谷(168)」が、「ツチヤ」姓と「ツチタニ」姓とに分かれており、「土屋(106)」「槌谷(18)」「土家(15)」「槌屋(5)」といった、漢字表記の異なる「ツチヤ」さんがおられ、分布の拡散の度合いとの兼ね合いから、大分県よりも古い時代に、まず「土谷(ツチタニ)」さんが住んでいたのではなかったかと推測しています。

    地図が小さくなって見にくいのですが、以下、5軒以上と7軒以上が集まっている地域をポイントした地図を示します。

     

     

     

     

    奈良県とその周辺と国東半島との間で水路による移動がかつてあったことを暗示するかのように、瀬戸内海沿いの、岡山県岡山市東畦、笠岡市尾坂、成羽町小泉、山口県田布施町大波野、などに小さな集中が見られます。また、長崎県壱岐郡郷ノ浦町牛方触、本村触、永田触の3地点に集中が見られるのも、水路での移動という点で興味深いものがあります。

    私たちの遠い先祖は、朝鮮半島から壱岐に渡り、そこから瀬戸内海を通って関西に行き、大和川を上って桜井市にまで達したのでしょうか。桜井市周辺は、最も古い前方後円墳が見つかっている地域ですが、そうした古い時代からつながるような一族だったのでしょうか。堺市栂の土谷さんが桜井神社という神社の氏子だそうですが、この桜井神社は桜井市の桜井と関係があるのでしょうか。奈良県の土谷さんについての調査は、まだ全く進めていないといっていい状況です。何か見つかるかも知れませんし、何も見つからないかも知れません。ただ、地理的な分布などを客観的に見ていくときに、奈良県周辺の土谷さんが最も古い時代の一族に関しての鍵を握っているような気がしてならないのです。

    もう一度全国の分布に目を向けると、秋田県十文字町睦合(41)、群馬県下仁田町青倉(22)、大阪府堺市栂(25)の3地点は、一つの大字としては多くの土谷さんが集中している地域ですが、堺市が奈良県の分布エリアの範囲に含まれるのに対して、秋田県、群馬県はさほど広がりが見られません。このような地域分布の特性からも奈良県、大分県が土谷姓の分布において特別の場所であると考えずにはいられないのです。そして、これまでの調査から、大分県も含めてその他の地域の土谷さんは早くとも15世紀ごろに移住したように思え、奈良県周辺にはそれよりももっと古くから住んでいたように思えて来るのです。

     

  3. 北海道の土谷さん

札幌市の北海道開拓記念館に隣接する「開拓の村」に明治時代初期に建てられた家が移築されて建てられていますが、その一つに「旧土谷家」というのがあります。この家についての資料を送っていただきましたので、以下に引用します。

【旧土谷家はねだし(修景・復元)】

1)旧所在地 爾志郡熊石町字根崎61番地(爾志郡熊石村字根崎)

2)建築年代 明治20年(1887)頃

3)面積   80.14u

4)構造   木造平屋建

5)収集年  昭和60年(1985)

6)復元年  昭和61年(1986)

7)寄贈者  土谷利美(爾志郡熊石町字根崎61番地1)

8)建物等の沿革

9)収集・復元の経過

解体収集工事は昭和60年10月から11月まで約140万円で岸田建設株式会社が行った。

復元工事(展示修景工事)は昭和60年10月から昭和61年1月まで862万円で岸田建設株式会社が行った。

10)建物の概要と特色

はねだしは、鰊漁家の付属施設として海岸の地形にあわせて海側に跳ね出す形で建てられた倉である。海から建物の下に舟を着け、床の開口部を通して、直接荷物の出し入れを行うことができる。この建物は、漁具や漁獲物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用された。

北海道の土谷さんは、漁業に携わった家が多かったようで、函館市周辺からこの爾志郡あたりにかけて、ある程度の集中が見られます。北海道のもう一つの集中点は札幌市とその周辺なのですが、こちらは寿都町および浜益村などに入植した人の子孫のかたが札幌市に移住してきた結果ではないかと思っています。いずれにしても、明治初期に入植した土谷さんは海に関係した仕事の家が多かったと思われます。

西日本の土谷さんにおいても、瀬戸内海を中心とした水路に関連した分布をしているので、海と土谷とはそれほど意外な結びつきでもないようです。

 

  1. 山形県の土谷さん
  2. 鶴岡市の総隠寺という寺に土屋又蔵という人物の墓が残っています。鶴岡市出身の時代小説作家、藤沢周平の「又蔵の火」という短編小説の題材となった人物です。又蔵(虎松)は天明8年(1811)兄萬次郎の仇討ちにおいて、叔父であった仇と差し違えて23歳で亡くなりました。この仇討ちの話は後世に伝えられることになったようで、江戸末期の儒学者であった芳野金稜(1803〜1878)という人が「土谷又蔵伝」という文書を残しています。

    芳野金稜によれば「土谷」で、それから100年ほど後に書かれた藤沢周平の小説では「土屋」になっており、この小説が観光客を呼ぶきっかけになって、総隠寺の墓に案内のための石碑や又蔵の仇討ちの像などが立てられたようです。いずれにしても現在の鶴岡市における様々な案内書には全て「土屋又蔵」として紹介されているというのが現状です。

    土谷又蔵伝が所収されている「金稜遺稿」は、奥付を見ると、「明治19年版権取得、21年7月5日出版/編集兼印刷者:相続人 東京府士族 芳野世経」などとなっています。芳野金稜が「土谷又蔵伝」を書いたのがいつなのかは分かりませんが、亡くなる直前に書いたとしても、藤沢周平よりも100年も前に書いたことになり、又蔵の死後50年ほどのことになりますから、23歳で亡くなった又蔵を直接知っていた人から話を聞く機会があった可能性も十分に考えられます。また、金稜は国学者として非常に多くの文書を書いており、人物伝も多数書いていますので、名前を間違うというのはあまり考えられません。しかし、現実には地元の人たちも含め、「土屋又蔵」として伝わっているようです。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?

    この理由を考える上で、もう一つの実例を簡単に紹介しましょう。

    江戸末期から明治初期にかけての和算学者、土谷温齋(1823〜1890)は大分県真玉町出身で、明治初期において豊国学校を江戸で開き、会計簿記の指導などを通じて明治初期の銀行指導者の多くを育てました。一橋大学の西川孝治郎文庫には彼の著作がいくつか収蔵されています。こうした温斎ですが、人名辞典などでは「土屋温斎」として紹介されています。

    温斎の場合は、地元大分県では「土谷(ツチヤ)」ですが、東京中心に編集された人名辞典では「土屋」となっているのです。鶴岡市の「土谷又蔵」が、もし「土屋」であって、下総出身で江戸在住の芳野金稜が「土谷」と間違って書いたのならば、温斎とは逆の現象がここで起こっていたことになります。これは、大変に考えにくいことだと思います。しかし、鶴岡市では「土屋又蔵」として知られているのです。何故なのでしょうか?

    現在でもそうですが、国内のごくわずかの特別な地域を除いて、土谷を土屋と間違えて書かれることはあっても、土屋を土谷と間違えて書かれるケースはないだろうと思っています。少なくとも私はそのような事例を一つも聞いたことがありません。これは、鎌倉幕府創設時から歴史の表舞台で活躍してきた土屋氏の名字が人々、特に関東を中心とした広い範囲の人たちに受け入れられていたという背景があったからだと思います。

    さて、こうやって考えると、もともと「土谷(つちたに)」という名字が奈良県付近にあって、その後、関東の土屋氏が関西にも入ってくるようになって後に、土谷をツチヤと読むようなことになったのではないかとも考えられそうです。「谷」という漢字を「ヤ」と読むようになったのが、中世の関東であったろうと思われることを考え合わせると、そうした可能性が考えられます。ただ、芳野金稜が生まれ育った地域では、平地が山あいに接する場所や湿地などを表す「ヤ」という言葉を「谷」という漢字にあてていた地域でもあり、逆に、このことが「ツチヤ」を「土谷」で表す背景になった可能性もあるかも知れません。

    いずれにしても「土谷又蔵」と「土谷温斎」の例は、土谷姓と土屋姓の混同について、いろいろと考えさせられる実例ではあります。

    山形県の土谷さんは、日本海側にある鶴岡市からは離れていて、村山市楯岡、河北町谷地、白鷹町佐野原に5軒ずつ集まっています。

     

  3. 島根県の土谷さん
  4. 島根県の土谷さんについては、大原郡大東町大東というところに12軒あり、その周辺を含めて県全体で55軒あります。先月、佐賀市を訪問した際、島根県出身の土谷さんにお会いし、島根県の土谷さんが「ツチヤ」ではなく、「ツチタニ」であることを知りました。奈良県のように混在ではなく、おそらく全ての土谷さんが「ツチタニ」のようです。奈良県とその周辺以外では、島根県の他に、山口県須佐町の土谷(ツチタニ)さんを確認しています。「谷」を「タニ」と読む地名の分布は、非常にクッキリと西日本に分布することから考えても、西日本の土谷さんが「ツチタニ」であることは納得がいきます。むしろ大分県などで「ツチヤ」と読むのは、中世以降の関東からの影響を強く受けていると思われます。島根県、山口県の日本海側の土谷さんは、そうした影響から守られ、奈良県では半数以上が影響を受け、九州では全てがその影響を受けたのでしょうか。一族の移動時期、移動規模などとも関係があるように思えます。

     

  5. 長崎県の土谷さん
  6. 先月、長崎県北松浦郡福島町を訪れました。佐賀県伊万里市の近くの福島という島です。ここには土谷(ツチヤ)さん、土谷(ドヤ)さん、土屋(ドヤ)さんという3つの名字があるということで以前から大変に興味を持っていたところです。土屋(ドヤ)さんについては、土谷(ドヤ)さんから分かれたと言い伝えられているそうですが、土谷(ツチヤ)さんと土谷(ドヤ)さんの関係は分からないということでした。

    福島町の訪問での一番の収穫は、土谷(ツチヤ)さん宅に伝わる江戸時代の古文書や道具類でした。福島には江戸時代から炭鉱があり、土谷さんの先祖は「山目付」として、代々松浦藩に仕えていたそうです。右の写真の「土谷政右衛門」という名前の右肩に「山目付」と書いてあるのが読めるでしょうか?

    以下、昭和55年発行の「福島町郷土誌」からの引用です。

    「文政六年(1823)福島村山目付土谷政右衛門(原免土谷敏武の先祖)による「未年御用状御請控帳」の中に「当未年大川内(某)石炭山御運上趣御定之通二月半納趣早々相納候処御申附云々」という記載あり、その頃すでに福島において石炭採掘が行われた事実が明かである。その頃は個人名儀で藩に願出て採掘を行っていたらしく、役人の検分もなされていた記録が残っている。(P.582 第四章 第七節 炭坑の開発と終結、より)」

    土谷のルーツは鉱山開発に関係があるかも知れないという考えとつながるような話にとても興味を持ちました。山目付としての日誌、おそらく100点以上に上ると思われる手紙類、松浦の殿様に謁見する際に着用したという紋付きの裃、脇差し、印籠、などが残っていました。20年ほど前に長崎県教育委員会が古文書類の調査をし、その報告書をまとめてたそうですが、その報告書を見つけることができませんでした。今回の訪問では、10枚ほどの写真を撮らせていただいただけでしたが、計画をして、数日かけて、全部の古文書類を撮影したいと考えています。家紋は「丸に剣片喰」。

    炭鉱地帯である福岡県直方市に親戚がおられるということですし、壱岐にも親戚がおられるということで、他地域とのつながりがいつの時代からだったのかなど、まだまだいろいろな情報が出てくる可能性がありそうです。

     

  7. 大分県で見つけた系図

先月、大分県三重町に3度目の訪問をしました。今回の訪問では、菅生の土谷さんと赤嶺の土谷さんを訪問しました。

菅生の土谷さんの家では、先祖から伝わる神棚を見せていただき、江戸時代に大庄屋をしていた土谷の家は跡継ぎが絶えたが、小庄屋をしていたこの家は続いているとお聞きしました。菅生に一番古くから住んでいるのが土谷だと伝えられているのだそうです。

赤嶺の土谷さんは代々「市辺田(いちべた)八幡神社」の神官を勤めてきた家で、35代に当たる子孫のかたにお会いし、墓地を訪ねてきました。家紋は「中川柏」という、柏紋の中でも少し珍しい紋です。10数年前に家を改築した際に、残っていた資料や道具などの多くを処分されたそうで、少し残念に思いましたが、狭間町に住んでおられる親戚のかたが系図をお持ちだと知り、翌日系図を見せてもらいに狭間町を訪問しました。

この系図を見た私は大変に驚きました。2年前に同じ三重町で見せていただいた、別の家の系図と全く同じ筆跡だったからです。帰宅後、2年前の写真と比較して、そのことを確認しました。そして、系図の冒頭の桓武天皇について、こちらは48歳で亡くなったと書かれており、2年前のものは70歳としてあるのです。歴史の本に書かれている内容とは亡くなった日付も含めてどちらも異なっていますが。そして、諱を「兼昌親王」としていますが、これも「山部親王」とする通説とは異なります。

この赤嶺土谷家の系図の中身についてですが、例えば、「正宣 従三位宰相 中山大納言正親 御養子」などという記述があり、他にも「○○中納言(左大臣、関白など・・)△△ 養子」という形のものが何ヶ所かあり、○○ △△の部分には、「九条 兼良」、「中山 正親」、「久世 晴豊」、「近衛 基村」、「北畠 顕尚」、「坊城 宗條」、といった名前が登場します。これらの名前は、実際にありそうな名前なのですが、図書館などで調べることができる系図資料にはどれも見つけることができず、それぞれの時代のそうした地位に実際にいた人物ではありませんでした。残念ながら、この系図は作為的に作られた系図だと言わざるを得ません。しかし、系図に書かれた最後の人物が亡くなったのが江戸末期ごろだと推定でき(系図の上部が欠損しているので内容の一部が確認できません)、その人物や数代前までの先祖についての記述は正しいものだと思われます。系図の内容の詳細の調査は、今回のデジカメの撮影では細かい文字の判読ができず、次回訪問時に再度撮影のお願いをしたいと思います。

いずれにしても、この系図も、2年前に別の家で撮影させていただいた系図も、おそらく江戸末期か明治初めに書かれたと思われますが、百数十年も経って写真撮影され、比べられる運命にあったというのは大変な驚きでした。系図屋という職業があったそうですが、この二つの系図は、同じ系図屋によって書かれたであろうことはまず間違いないと思われます。内容については、それぞれの家に伝わる文書や言い伝えを元に書いたのでしょうが、創作の部分も混じっていたのでしょうか。今となっては、どの部分が事実を元に書かれ、どの部分が創作に当たるのかということは、判断することが非常に難しく、系図資料の調査によってルーツを探る限界を見せつけられた思いでした。

赤嶺土谷家系図は、筋書きとしては、桓武平氏の出で相模の三浦義継の末子岡崎四郎義実の次男が土屋宗遠の養子に入り土屋義清を名乗りますが、その義清の子孫であるとしています。土屋宗遠の姉が三浦義継の妻で、義清は甥にあたります。この筋書きは石川県金沢市の土谷さんに伝わる話と同じです。また、秋田県東成瀬村の土谷さんにも三浦氏の子孫だという言い伝えが伝わるそうで、この話とも符合します。

では、土谷のルーツは土屋義清なのでしょうか?

私は、これまでの調査を踏まえて、次のように考えています。

江戸時代に、各地の土谷さんの中には、大庄屋や神社の神官など、その地域の名士としての地位を確立した家がありました。戦国時代に、平民から成り上がった殿様の系図などで商売をしていた系図屋も、庶民の時代になると地域の名士と言われる人たちを得意先としたのではなかったでしょうか。彼ら系図屋は、それぞれの名字に応じて、基本系図データを持っていたに違いありません。そして、それぞれの家からの注文を聞くときに、その家に伝わる系図や言い伝えなどを参考に、手持ちの系図資料とどこでつながるかを検討し、書いていったに違いないと思うのです。その際に、つながりが不明な部分は、想像で付け加えたりしたようなこともあったのではないかと。

そうした系図屋が持つ系図情報の中で、江戸時代の中ごろには、「土谷」は、「土屋」から分かれ、三浦一族につながる土屋義清がそのルーツであるとするのがもっとも自然であるということが確立していったのではなかっただろうかと考えるのです。秋田県、石川県、大分県にそれぞれ伝わる話しも、こうした系図屋の情報が伝わっていったに違いないと考えるのです。

平成の時代にも、同じような商売をしている団体があるようです。数年前に親戚の一人から、「土谷家の系図」と表紙に書かれた、糸で立派に綴じられた本を見せていただいた。何千円かを出して買ったと言ってました。中身を読んでいくと、土谷は土屋から分かれたというようなことが書かれていて、その土屋の起こりはこう言う風で、という感じで以下は桓武天皇からの相模土屋氏の系図がズラズラと続くものです。大きな文字で書かれているので、ある程度の厚みのある本だけど、内容は姓氏辞典などに書かれてある内容よりも少ないものでした。それでも、どこまで調べた上で土谷は土屋からと書いているのか興味はあったけど、期待を大きく裏切られました。

先祖調査をします、という広告を見かけることもありますが、今の私はそうした人たちに頼むよりも、自分でコツコツと調べるほうが納得がいくと感じています。

 

 

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2001.6.20  土谷重幸