土谷さんメール新聞     第8号
                   2001年8月20日発行
(1) 対馬と忍海
 前回第7号で、近畿の大和川から瀬戸内海を通じて国東半島とつながっている のではと思われる土谷さんの分布を紹介しましたが、長崎県福島町、壱岐にも 土谷さんがおられるということから、古代の朝鮮半島とのつながりは考えられ ないのだろうかと思ったのでした。そして、それなら対馬にも何か見つから ないかと考えました。今回のメール新聞も、いつものことながら私の独断と 妄想に満ちた内容になりますが、対馬を中心に調べた範囲で報告してみます。 今回は土谷さんについてというより、「忍海」という古代の姓についての調査 報告ということになるのですが。

 対馬の浅茅湾の黒瀬の城山には、山腹から尾根を越え、谷を渡って、石積み の城壁が続いているそうです。金田城(かねたのき)と言われる、辺境を 守った防人の城です。天智天皇6年に築かれたのだと伝えられているそうです。
 天智天皇2(663)年の春、救援軍二万七千は朝鮮海峡を渡り、前年の 派遣軍五千と合流し百済の復興を賭けて、唐、新羅の連合軍と戦い、八月の 白村江の水戦で敗滅しました。辺境守備はこのときに始まり、翌3年、唐や 新羅の進入に備え、前線基地として筑紫に大宰府を置き、対馬、壱岐、筑紫に 防人を配し烽を設け、城を築きました。
 この対馬が何よりも脚光を浴びることになったのは、その10年後の天武 天皇3(674)年、銀の発掘でした。下対馬の西岸、佐須の山から掘り出さ れた銀は、白く光る石として大宰府を通して朝廷に献上されました。
 「改訂 対馬島誌」によると、下県郡佐須大字樫根に銀ノ本(かねんもと) というところがあり、この地域一帯に古い坑道の跡があってこれを「シキ」と 呼ぶと記しています。古い時代、大宰府を通じて、毎年、銀890両を朝廷に 貢いでいたそうです。また、文武天皇5(701)年には金も産出したのだ そうです。そしてこのことで、年号が「大宝」と改元されたそうです。
 この金の産出に関して、対馬島誌には、文武天皇2(698)年に大和国の 忍海郡の人である三田首五瀬(みたのおふといつせ)朝命を対馬によこして、 金の冶金を命じたとあります。そして文武5(701)年3月に冶金が完成 し、朝廷に金を献上し、同年の8月に冶金従事者に褒美が与えられ、三田首 五瀬は正六位上の位を授かり封五十戸、田十町の他、布などを賜ったそう です。しかし、その直後に陸奥において大量の金が発見され、対馬の金は 含有量が少なかったこともあり、採掘は止んだそうです。銀については、 その後も約400年以上、掘られ続けたそうです。
 対馬島誌によると、銀を初めて献上したのは対馬国司の忍海造大国(おし うみのみやつこおほくに)だったそうです。そして、対馬の金に遅れること 48年、陸奥に大量の金が発見されますが、その陸奥の金の発見者が大和国 の忍海荒鎌という人物であることに触れ、この人物はそれ以前に対馬に来て 研究を積んだ人物ではなかったかと書いています。対馬の銀、金、さらに 陸奥の金のどれもに大和国の忍海と直接関係する記述が残っているという ことなのです。これは非常に興味深いことだと考えています。なお、大和の 忍海は、現在の奈良県北葛城郡新庄町にある忍海(おしみ)というところを 中心とした地域です。この忍海は、古代の朝鮮半島から連れてこられた鍛冶 職人が多く住んでいたという記録が残るところだそうで、それを裏付けるか のように、昭和61年、西側にある平岡西方古墳群から鉄床、鉄鎚、などの 鍛冶道具を始め、鉄製の馬具や農具などが多く出土したそうです。
 この地に建てられたという「忍海角刺宮」で政治を執った飯豊青(いいとよ のあお)皇女は億計王(おけおう)と弘計王(をけおう)の二人の弟が皇位 を譲り合うのを見かねてこの宮を建て、臨時に政治を執ったのだそうです。 この姉弟は、市辺押磐皇子の遺児で、父が雄略天皇のために殺されて以来、 身を隠していたものを、明石郡(明石市付近)の宿見屯倉首(しじみのみやけ のおびと)である忍海部造細目(おしむみべのみやつこほそめ)の家で見つ けられたもので、宴席での舞に弟が名乗り出て、子のなかった清寧天皇は 喜び、兄を皇太子に弟を皇子としたのだそうです。ここでも忍海というキー ワードで明石がつながります。そしてこの近くの三木市の「三木金物」は 今でも有名で、忍海の鍛冶職人集団とのつながりを感じさせます。
 (参考図書:「探訪 日本書紀の大和」鶴井忠義/雄山閣)
 また、忍海部について、「国史大辞典」に以下のように記されています。
 「「続日本記」養老六年(722)3月条に、近江国の忍海部乎太須が 伊勢国の金作部牟良・忍海漢人(あやひと)安得ら七十一戸の雑工とともに 雑戸の号を除かれたとあることからすると帰化系の鉄工技術者である忍海 漢人の配下の職業部かとも思われるが、あるいは忍海角刺宮にいたという 飯豊皇女の宮号を付した御名代の部で、忍海部造という氏はこれを管掌する 中央の伴造かも知れない。」

 対馬島誌に戻って、その記事の中で気がついたものをいくつか紹介して みましょう。時代はかなり下って、文明十八(1486)年、古代の銀山は このころには閉山されていましたが、豊後の鉱業者二百余人が対馬に来て、 佐須に鉱山を開きたいと申し出たそうです。家臣達が反対するのを聞かず に、宗貞国はこれを許可しました。しかし、大雨のたびに出水が激しく、 田畑の大半に大きな害を与えたので止めさせたのだそうです。豊後から 鉱山者が200名もやってきたこと、豊後に移住してきた土谷三郎持継が 亡くなったとされる時期の30年ほど前のことであるなど、時期的に大変に 興味深い記述です。豊後側にこれに符合する記録が残っていたり、対馬の 宗家の記録に豊後人の名前などが残っていると嬉しいのですが。
 さらに時代が下って、江戸時代の慶安3(1650)年、商人の畑原 出右衛門という人物が佐須銀山を再開します。そして下原村鶴野という ところに鉱夫等の居宅五十余戸を作ってこれを「床屋」と呼んだそうです。 その後、「床谷」と表記を改め、読みは「とこや」のまま。現在もこの 地名が残っています。これを読むと、「土屋」が「土谷」になったという ことも認めないといけないのかなぁという思いもしないでもありませんが、 まだまだこれくらいで信念を曲げるわけにはいきません。
 対馬の土谷さんは電話帳ソフトによれば厳原市に4軒。内、厳原市下原に 2軒となっています。土屋さんは、壱岐にも対馬にも1軒もありません。

(2)現在の忍海さん
 電話帳ソフトで検索すると、現在、「忍海」姓の家は一軒も見つかりま せん。「鴛海」姓なら全国で300軒あまり見つかります。姓氏辞典に よると「鴛海」姓は「忍海」姓から出たとされています。さて、この鴛海 さんですが、その3分の1の100軒あまりが大分県に分布し、驚く ことにそのほとんどが豊後高田市に住んでおられるのです。
 全国に318軒しかない鴛海さんのうち、109軒が大分県に、そして 福岡県に86軒です。その次に多いのは大阪府22、神奈川17、 兵庫11、東京11、で、あとは一桁台です。大分県と福岡県にいかに 集中している姓であるかがわかります。そうした中で豊後高田市の69軒 というのは、大変な集中度です。土谷姓についても、全国4558軒のうち、 大分県に434軒が集まり、その中で豊後高田市89軒、真玉町82軒が 集まっていますが、鴛海さんの集中度とは比べものになりません。土谷姓 は、北海道538軒、大分県434軒、大阪府307軒、東京都304軒、 福岡県278軒、となっています。
 以前、土谷姓と麻生姓の県別分布がよく似ているということを書きま したが、今回、こうした調査を元に、大分県と福岡県についての土谷姓と 鴛海姓の分布図を作ってみました。この二つ以外の県では、鴛海姓が少な すぎて、分布図を作ることができませんでした。そして参考のために 麻生姓についても並べてみました。

 大分県の分布を見ると、宇佐・国東地方での分布状態など、鴛海の 分布のほうが麻生の分布よりも土谷の分布に似ていることがわかります。

 福岡県の分布状況を見ると、北九州市を中心に、土谷と鴛海の分布が 非常によく似ていることがわかります。それに対して、麻生の分布はやや 西よりの分布をしており、これら二つの姓の分布とは異なった状況にある ことがわかります。ちなみに麻生姓は全国6206軒のうち、大分県 1225軒、千葉県803軒、福岡県645軒、などとなっています。

(3) 忍海の場所
 下の地図は、新庄町忍海の位置を示したものです。そして、同一の大字 の中に7軒以上の土谷さんが集まっている箇所を同時に示しています。 堺市栂(25軒)、王寺町畠田(17軒)、桜井市上之庄(13軒)、 當麻町尺土(11軒)、御所市楢原(7軒)、香芝市上中(7軒)、 の7ヶ所です。

 この地図上の堺市栂と桜井市上之庄についてですが、「探訪 日本書紀 の大和」などの記事をまとめると次のような内容になります。
 崇神天皇が即位し、都を磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)に置き ました。桜井市の大神神社の拝殿横から山の辺の道ぞいに南へ下ったところ に、志貴御県坐(しきみあがたにます)神社という小さな社があり、この 場所が宮の跡だとされているそうです。桜井市金屋という場所で、上の 地図の上之庄のすぐ右のところです。
 崇神天皇の即位から五年目、疫病が流行し、様々な手が打たれましたが、 災いは後を絶ちません。その時、夢のお告げに大物主神が立ち、「もし、 吾が児、大田田根子を以て吾を祀らしめたまはば、立ちどころに平ぎ なん」と言ったので、あちこちに手配して、やっとのことで茅渟県(ちぬ のあがた)の陶村にいた大田田根子を探し出し、疫病は消滅しました。
 陶村は、堺市付近の丘陵地帯にあったようで、五世紀初頭、朝鮮半島 から渡来した技術者集団が近畿で初めて須恵器の生産を開始した地域と 考えられています。泉北ニュータウンの造成などに伴い多数の須恵器窯 が発掘され、阪南古窯群と呼ばれています。
 土着性の色濃い三輪の神と渡来系の技術者集団とのつながりは、 ちょっと考えると奇異だが、三輪山周辺から出土する得意な祭祀遺物、 子持勾玉が、この阪南古窯群での須恵機の生産開始と密接な関連があり、 説話との符合がうかがえる、との指摘もあるそうです。
 この大田田根子が発見された陶村に関係する神社として、堺市上之に ある「陶荒田(すえあらた)神社」が知られています。この神社の森を 「太田の森」と呼ぶそうですが、これが大田田根子に由来する名前だと されています。また、この神社から南西に2.5キロほどのところに 桜井神社という神社があり、この神社の拝殿は国宝に指定されています。 この桜井神社の祭神は、仲哀・応神両天皇と神功皇后だそうですが、 社伝によれば、古くは桜井朝臣の祖神を祀ったものだそうです。古代 須恵器の窯跡が多く残るこの地域にあって、そうした技術を大陸から 移入した百済系氏族桜井氏の祖神を祀ったものとみていいだろうとされて います。現在、桜井神社の氏子総代を、堺市栂に住む土谷さんのお一人が されているようです。

(4) おわりに
 忍海という名前が、7世紀から8世紀にかけて、対馬、陸奥、明石、 伊勢、大和、などに、金、銀、鉄、などの技術者集団と関連付けて登場 するということ。忍海につながる鴛海姓が大分、福岡に極端に集中し、 両県内の分布が土谷姓の分布によく似ていること。奈良県内の土谷姓が 集まる地域の分布。こうしたことから、ついつい、土谷の先祖が古代の 忍海さんたちと行動を共にした時期があったのではなかっただろうか、 あるいはかつて忍海と名乗っていた一族が、ある時期に土谷という姓を 名乗るようになったのではないだろうかと妄想してしまうのです。 堺市栂と桜井市大神神社を結ぶ東西のラインに関しての説話は4〜5世紀 ごろの話で、忍海の名前が対馬などに登場するよりも2〜300年も遡る 話になりますので、一緒くたにできませんが。
 奈良県を中心に、現在、点在して分布する土谷さんが、こうした古い 時代のこの地の歴史と関係があるのかないのか、今は全くの空想に過ぎ ないのですが、対馬―壱岐―北部九州―瀬戸内海―明石―畿内と続く ライン上に現在の土谷さん集落が分布し、陸奥の金についても、江刺市、 東成瀬村、十文字町、など、岩手県、秋田県の土谷さん集落とつながって くるようにも思われます。石川県金沢市の土谷さんも、金との関係がある かも知れません。群馬県下仁田町の土谷さんについては、鉱山との関連が 見えていない唯一の大きな集落と言えますが、武田信玄との関係が深いと いう言い伝えの残る地域ですから、甲斐の金山から移住してきた人たちで あったかも知れません。
 ルーツ探検は、これからも果てしなく続く長い道のりになりそうです。

※お知らせ
 8月22日発売の「婦人公論(9月7日号)」という雑誌の中の 「井戸端会議」というコーナーに私が登場します。フリーのニュース キャスターの田丸美寿々さんの司会で、地図研究家の今尾恵介さんと いうかたと3人で地図についておしゃべりした内容が掲載されます。 写真も掲載されると思います。機会がありましたら、お読みいただける と幸いです。
 実は、今回の第8号は、このことをみなさんにお知らせしたくて、 急きょ作成を思い立ったものです。(^^;
 ということで、これからも、情報の提供をよろしくお願いします。

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                    2001.8.20  土谷重幸