土谷さんメール新聞     第9号
                           2001年12月20日発行
 先月、11月16、17日の二日間、東京に行ってきました。17日の午前中から放送 大学大学院の面接を受けるため、前日から上京したのですが、16日は朝一番の飛行機で 行き、東京大学史料編纂所、一橋大学付属図書館、そして17日早朝になってしまいまし たが、西巣鴨の善養寺を訪ねました。今回のメール新聞では、それらを訪問して撮影して きた書籍などの資料を使い、「土谷温斎」の紹介と「土屋」と「土谷」に関する一つの考察 を紹介してみることにします。

(1)土谷温齋(1823〜1890)
 いくつかの人名辞典や百科事典にも紹介されている人物ですが、残念ながらそれらの多 くには「土屋温斎」として載っています。今回の報告を元に出版社に働きかけを検討して みようと思います。
 今回の上京では、一橋大学付属図書館に収蔵されている温斎の著書のコピーを取らせて いただくことと、温斎が江戸に上った当時善養寺の住職をしていた叔父を頼って寺に居候 したと書かれていることから、明治時代に下谷から西巣鴨に移転した善養寺を訪ね、何か 関連資料が残っていないかを尋ねることでした。
 温斎について、もっともよく伝えていると思われる文章には、大正11年発行の「西国 東郡誌」(昭和48年発行の復刻版を参照)および昭和53年発行の「真玉町誌」がありま す。これらの記述などを参考に、温斎の略年表を作ってみました。(年齢は数え年)
文政 6年(1823)    西国東郡真玉町大岩屋に誕生(父:土谷勘左衛門)
               父の死後、同郡中真玉村西畑の兄土谷九三郎の元へ
天保 5年(1834)12歳 後藤某の酒造場、高田町生田屋、中津町播磨屋等に
               丁稚奉公、算術を学ぶ。
年月不詳           母とともに大阪へ
                その後京都にて宗眞齋、吉原與三郎等に師事
                宗等の斡旋で、相場会所の会計に従事
嘉永 2年(1849)27歳 母の死。叔父を頼って江戸下谷善養寺に
嘉永 5年(1852)30歳 善養寺を出て、酒舗を開く傍ら雑貨の販売
年月不詳           鈴木五兵衛の長女と結婚
文久 2年(1862)40歳 浅草清道寺通りに砂糖屋を経営する傍ら
                天野文治郎に師事、和算を学ぶ
年月不詳           下谷片町に豊国学校開設(昼間は子弟に業を授け、
                夜は天野に学ぶ)
元治 元年(1864)42歳 京橋区丸屋町に移る。
                このころ浅野、黒田の両家からの招聘を断る。
慶応 3年(1867)45歳 愛宕山に算額を奉納
明治 元年(1868)46歳 旧領主内藤候の命に応じ延岡藩に仕える。士族に列す。
                昼間は藩校で教授し、夜は市中の子弟に教える。
明治 6年(1874)51歳 再び上京。日本橋区旧細川邸内学校を設け、
                和洋算術、簿記法を教授
年月不詳           京橋区佐柄木町に移転。その後宗十郎町に移転。
                この豊国学校は大正時代まで残っていたらしい。
明治19年(1887)64歳 肋膜炎を患う。
明治23年(1890)5月7日   逝去。68歳

 今回の善養寺の訪問で、歴代の住職の在位年表を見せていただきました。以下のとおり です。
 六世 仙祐 中興開基、
東叡山修禅神院六世を兼ねる
七世 応純 延宝8〜享保5
八世 存晃 享保5〜宝暦2
九世 義淳 宝暦2〜享和2
十世 淳応 享和2〜文化14
十一世 淳教 文化14〜文政3
十二世 諦順 文政3〜文政9
十三世 義繕 文政9〜文政11
十四世 良道 文政11〜文政12
十五世 義全 文政12〜天保14

十六世  順最 天保14〜万延元
   (1843〜1860)
十七世  円応 万延元〜慶応4
十八世  広海 明治元〜明治8
十九世  豪全 明治8〜明治25
二十世  実弁
二十一世 円明
二十二世 宥全 明治37〜明治39
二十三世 照信 明治39〜明治40
二十四世 谷行順 明治40〜大正8
 日光唯心院から転住

 この表と、先の温斎の略年表を比較すると、十六世の順最が住職の時代に3年間、善養 寺に居候していたことがわかります。つまりこの順最が温斎の叔父であっただろうと推測 できるのです。今回の訪問では、温斎が寺に滞在した期間をはっきり覚えてなくて、十七 世の円応の時代だと勘違いし、円応が書いた書簡を写真撮影させていただきました。次回 訪問の際に順最についてお聞きしようと思います。
 この善養寺は、現住職からいただいた資料によると「開基は古く、天長年間(824〜 834)、上野山中に慈覚大師円仁によってなされた、という。江戸時代、善養寺は東叡山 末寺となり、享保三年(1718)には門前町を許された(『御府内備考』)。」と紹介され ています。明治末期に、鉄道敷設のため移転となり巣鴨庚申塚の寺町に引っ越してきまし た。江戸三大閻魔のひとつ、えんま寺として有名で、また陶工尾形乾山(尾形光琳の弟) の墓(都の史跡)があることでも知られます。私の事情で早朝の訪問になってしまいまし たが、現住職、二十六世舘克亮さんにはとても丁寧に応対していただき、感激しました。 また訪問できればと思います。
 さて、温斎の叔父が善養寺の住職をしていたことに関して、比叡山または東叡山で修行 を積んだ後に住職になったのだろうということでした。頭のいい子だったので、修行を積 んで住職になるようにと出されたようなこともあったのではなかったかとも考えられるそ うです。国東半島は六郷満山の歴史を持つ独特の天台仏教文化が栄えた地ですし、この地 の三畑土谷家に伝わる史料の中にも永享9年(1437)の「六郷山長岩屋住僧置文案」 というものがあり、土谷家もこうした六郷満山のしきたりに深く関わってきたことが窺え ますので、そうした背景からも天台宗の僧侶としての修行を目指すことに価値を見出す家 柄であったかも知れません。
 西の比叡山が京都の御所の鬼門に当たる方向に建てられたのに倣って、徳川将軍の居所 である江戸城から見て鬼門の方向に当たる上野の山に東叡山が設けられたのだそうで、寛 永寺というその寺は非常に広大な敷地を持ち、将軍家の後ろ盾もあって江戸時代には西の 比叡山よりも栄えたのだそうです。戊辰の役において幕府の残党が上野の森にこもったの も、ここに代々の将軍の墓地があり徳川幕府にとっての精神的な拠り所でもあったからで しょうか。更に、明治政府がこの地の寺を移転させ、公共の建物、大きな公園、道路や鉄 道を造ったのも、この地における徳川時代の名残を消し去ってしまおうとした結果ではな いかと思ってしまいますが、どうだっんでしょうか。
商法家簿記全書表紙  温斎に戻って、右の写真は「商法家簿記全書」という書物です。一橋大学付属図書館に は「銀行簿記学自宅独習誌 第1,2,6号」「会社簿記」「新編誤記誤謬発見法」「商法家 簿記全書」が所蔵されており、それぞれの書物の数ページずつをコピーに撮っていただく ことができました。左の写真はその一部を撮影したものです。 商法家簿記全書中身  これらの史料から、「土谷温 斎」は「土屋」を名乗ったことはなさそうだということが分かりますし、奥付から明治2 2年時点では京橋区宗十郎町住み「宮崎県士族 土谷温斎」を名乗っていたことなどが分 かります。
その他の著書中身  温斎に関して、慶応3年に奉納されたという算額について.。これは遠藤利貞(1843-1915) が著した「大日本数学史」の中に「豊国温斎」という名前で紹介されている話で、この算 額の問題を遠藤は解くことができたとも書いてあります。港区の愛宕神社に問い合わせた ところ、関東大震災と第2次世界大戦時の東京空襲の2度、神社の絵馬堂が焼け、絵馬も 記録も残ってないそうです。
 さて、これらの温斎に関しての史料などから、今後の調査として以下のようなことが可 能ではないかと考えています。ご協力いただける方がおられましたらぜひお願いします。
・温斉は結婚しているが、子供はいなかったのだろうか?子孫のかた、もしくは妻の 父親である鈴木五兵衛という人物の子孫のかたを見つけることができるなら、何ら かの資料を持っておられる可能性がある。温斎本人の除籍謄本が残ってないだろう か?
・西国東郡誌の記事を読むと、大正時代まで豊国学校が存続していたように読めるが、 豊国学校に関連した資料などはどこかに残ってないだろうか?
・明治元年から5年間、延岡藩において教えているが、延岡藩のの史料の中に何か残 ってないだろうか?
・温斎が母とともに、まず大阪に行き、その後京都に移ったのは、当時これらの地域 に親戚もしくは知り合いがいたのだろうか?
・真玉町役場、教育委員会、小学校、などに残っている史料があるかも知れない。
 以下、長くなりますが、大正11年に発行された「西国東郡誌」(昭和48年発行の復刻 版を参照しました)および昭和53年発行の「真玉町誌」の記事を掲載します。
 「土谷温齋、幼名萬吉、長じて彌兵衛と稱す。温齋は其號なり。後帷を垂れ數學を教授 するにおよび、温斎を以て通称とす。文政六年九月三日、西国東郡上真玉村大字大岩屋に 生る。家世々農を以て業とす。資産裕かならず、家庭教育の如き、言ふに足るるもの無し と雖ども、天禀の才識数理に長じ、早(つと)に郷人をして畏敬せしむるものあり。年十 二同村後藤某の酒造場に奚童となり、始めて算術を学ぶ。酒舗の主管等、毎夜当日の出納 を計算す。萬吉傍らに在り、瞑目之を聞き、違算あれば直ちに指摘す。人其故を問へば答 へて云ふ。予瞑目するも眼裏猶ほ算盤の暈映するありと。聞く者駭嘆敬服せざるはなし。 雇主亦其敏捷に感じ、益す其技を奨励す。是に於て専ら其術を攻む。されど未だ一定の師 あるに非ず。唯書籍に依りて研究を為すに過ぎず、後玉津村芝崎土谷家に至るに及び、斯 術の熟達を以て身を立てんと欲し、母を奉じ大阪に至る。幾くもなく又京都に入り、当時 在京の郷人、宗眞齋、吉原與三郎等に頼り、前途の方向を謀る。宗等其算術に長ずるを以 て為めに斡旋し、相場会所の会計に従事せしむ。既にして母没す。時に嘉永二年なり。温 斎又江戸に往き、下谷善養寺に僑居す。善養寺の住職は温斎の叔父にして温斎を視る猶ほ 子の如く。居ること三年、出でて商業に従事し、酒舗を開き、傍ら雑貨を販売す。時会ま 米国の使節浦賀に来り、海内騒然国是定まらず、遂に討幕の役となり、官軍江戸に進入し 満都の人心恟々たり。是に於て断然念を商業に絶ち、天野文治郎の門に入り、専ら和算の 奥義を攻む。時に温斎年不惑なり。日夜勉励寝食を忘る。家人病を生ぜんことを憂へ、屡々 忠告す。温斎云ふ。世間怠惰にして、疾病に罹る者多し、勉励の為め病を得ば、寧ろ喜ぶ 可きにあらずやと。更に省る所なし。尋て学校を下谷片町に設け、子弟に算術を授く。是 れ則ち豊国学校なり。昼間は子弟に業を授け、夜は乃ち天野に学ぶ。既にして京橋区丸屋 町に移り、其名漸く著はる。浅野、黒田の両家各温斎を聘す。温斎固辞して応ぜず。後旧 領主内藤候の命に応じ延岡藩に仕ふ。是れ今士族に列し籍を宮崎県に置きたる所以なり。 温斎の延岡に在るや、昼間は藩校に教授し、夜は市中の子弟に教へ、居ること五歳。朝廷 藩を廃し県を置くに会し、藩校随て廃す。明治六年復た東上し学校を日本橋区旧細川邸内 に設け、授るに和洋算術、及び簿記法を以てす。来り門に入る者日を遂ふて多し。偶ま類 焼の災いに罹り、京橋区佐柄木町に移転し、次て宗十郎町に転ず。今の豊国学校是なり。 明治十九年肋膜炎を患ひ、臥床殆んど半歳に及び、僅かに快復したりと雖ども、身体漸く 衰弱し、二十三年五月七日、遂に逝く。時に年六十有八。温斎夙に時勢の変遷を察し、天 資の算才を得て、更に泰西の数学を攻め、併せて簿記法製図術研究し、学校を帝都に開き、 以て其業を授く。蓋し本邦簿記学校を設立するもの。温斎を以て嚆矢とす。業を子弟に授 る前後三十余年、其門に入る者四千余名、北海道其他二三ヶ国を除くの外、全国各府県よ り入門せざるはなし。韓国人の如き、僅かに日本語を解すと雖ども、尚ほ五名の入門生あ りしと云ふ。著す所商法家簿記全書、並に独習誌等数編あり。

 編者云。土谷氏の伝記は、上真玉村役場より送付せられたる資料により記述したる後、 更に真玉尋常高等小学校より送付せられたるものあり。二者大体に於て大差なしと雖ども 記事多少精粗の別無きに非ず。蓋し温斎翁の如き、西国東郡有数の算学大家なり。其行為 を伝えて後学の亀鑑に資せんと欲するものは人物伝記の本旨なり。故に重複を厭わず、左 に送付の資料を登載し、以て読者の参考に資す。

 土谷温斎は豊後国西国東郡上真玉村大岩屋農土谷勘左衛門の次男にして文政六年二月二 十日を以て生まる。幼名を萬次郎と呼び、後彌兵衛と改め、温斎と号す。又源忠義字は子 敬と云ひ、俳号を花兄と称す。幼時父を亡ひ、同郡中真玉村西畑なる兄土谷九三郎の許に て人となる。幼より算数を好む。故を以て商業に志し、高田町生田屋、中津町播磨屋等に 丁稚奉公をなし、具に辛酸を嘗む。此頃より算数の術に於て並ぶ者なく、時人に舌を捲か しめしと云ふ。後京都に出医学を修むる傍ら俳句を秋香女子に学ぶ。然るに医は素志にあ らず。乃ち江戸に出下谷片町に酒舗を開き、繁栄し鈴木五兵衛の長女を娶る。尋で浅草清 道寺通りに砂糖屋を経営し、傍ら当時和算の大家天野文次郎栄親の門に入り、遂に其薀奥 を極む。元治元年八月京橋区丸屋町に私塾を開き、数学の教授をなすに至り大に著れ、諸 藩士の入門するものも多く、殊に細川家、上杉家よりの門人は、頻りに推挙を称揚したれ 共、悉く之を辞す。然るに事内藤家に伝はり、生地藩内なるの故を以て特に希望により、 町稽古のままにて同藩に仕ふる事となる。藩公帰藩の時、特に同伴を命ぜられ、暫時延岡 に止まりて教授す。後再び上京して和算の外に洋算簿記を併せ教授す。時に明治六年の頃 なり。後火災に遭ひ、度々居を転じ遂に京橋区に移り塾を改めて豊国学校と称す。教科は 前の如し。蓋我国に於て簿記学を修め、之を教授せしは実に温斎を以て初とす。是を以て 一時、東京、大阪等の銀行会社に豊国学校の出身者勤務せざるなきの盛況を呈せり。温斎 は明治二十三年五月七日、京橋区宗十郎町の私宅に於て卒去し、知足温斎居士と謚す。著 書中、和算に関するものは数多あり。殊に此種の書籍中貴重なるもの多き由なるも、目下 帝国学士院に貸与中にて急に調査出来ず、簿記に関するものに、商用簿記自宅独習法十二 巻、銀行簿記自宅独習法八巻、同説明書一巻、官用簿記自宅独習法九巻、商法家簿記全書 二冊あり。」(西国東郡誌〔大正11年版の復刻:編者:西国東郡役所/発行:中村安孝/ 発行:名著出版〕:昭和48年発行)

 「文政六年(1823)九月三日大岩屋に生まれた。幼少から農の助けをしつつ算術を 学び研究に余念がなく、算盤の才識にはみな敬服したものである。長じて大阪に出て京都 に宗真哉、吉原与三郎等を頼り、相場会所の会計となったが、嘉永二年母の死亡とともに 江戸に出て下谷の善養寺に居住した。旧領主内藤家に仕え、延岡の藩校の教授となった。 和洋算術記法の大家として名をあげ、明治十九年病をえて二十三年五月七日没した。享年 六十八歳。著書も多く学術的に貴重なものといわれている。」(真玉町誌:昭和53年発行)

(2)武田信玄と土谷 逸史表紙
 今回の訪問で、東京大学史料編纂所を訪ね、江戸時代末期に書かれた「逸史」(写真参照) について調べてきました。北九州市立中央図書館には全13巻中5巻だけしかなく、全巻 を確認したくて訪問したものでした。逸史は、懐徳堂主であった中井竹山(なかい ちくざ ん・1730〜1804)によって著された、徳川家康を中心とした歴史書です。竹山が徳川幕府 に献上した内閣文庫所蔵自筆本というのがあるらしいのですが、史料編纂所には、懐徳堂 が発行した全13巻があったので、それを閲覧しました。
 《逸史》 中井竹山手筆定稿は、寛政11年(1799)7月、竹山が幕府の命により献上した。嘉永元年(1848)に並河寒泉によって刊行されたものの底本となった。徳川家康の事績を編年体で記し、論賛を加えながらその功績を賛美している。竹山は、延享年間以来、30余年間に5たび稿を変えたといわれる。13巻13冊。

 以下、懐徳堂についての解説です。
 「懐徳堂は、享保9年(1724)から明治2年(1869)までの146年間、藩校のなかった 大坂に町人の財力で開設維持された学校である。本来は三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛 門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎の5人の豪商が、三宅石庵を師として 招き建てた私立の漢学塾であるが、享保11年(1726)に幕府の許可を受けて半官立とな った。そのあと2代学主中井甃庵(シュウアン)、3代三宅春楼、4代中井竹山と続き、士庶 共学、特に儒学教育の場として繁栄した。また中井竹山の時代には弟履軒とともに独自の 学風を形成した。塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人のことも 考え遅刻・早退も自由であった。門下生として富永仲基・山片蟠桃(バントウ)らを輩出して いる。明治45年には懐徳堂記念会として再興され京大教授、その他の有力な学者により、 昭和20年の空襲で焼亡するまで続けられた。その時焼亡を免れた蔵書等は大阪大学に寄 贈され毎年春秋2回、懐徳堂講座が大阪大学の企画で行われる。」
  (懐徳堂記念会ホームページ:http://www.aianet.ne.jp/~kaitoku/
野史中身

 メール新聞第5号に「野史」という書物から、大久保長安が武田信玄から「土谷」とい う姓を賜ったことを紹介しています。
 「大久保長安。甲斐人也。・・有寵於武田信玄。得入仕籍。冒族土谷氏。・・」(野史第 四巻:明治9年5月9日版権免許/昭和5年3月25日第三版発行/日本随筆大成刊行会)
《野史》 著者は飯田忠彦。「大日本野史」「日本野史」とも言われる。江戸時代末の嘉永 4年 (1851) 成立。紀伝体、漢文の史書で、本紀21巻、列伝270巻。

 この野史の記述にはその引用元として「伝記」「逸史」が記載されていました。それで、 この記述の元となる記述が「逸史」のどこかにあるかも知れないということで調査したの でした。見落としがないとは言えませんが、逸史の中で大久保長安(逸史では「大窪長安」 と記されていました。)に関して記述されている箇所は2箇所しか見つけることができず、 そのどちらにも「土谷」に関しての記述はありませんでした。つまり、「野史」は「逸史」 以外の史料を元に、武田信玄から大久保長安に与えられた「土谷」姓について書いている と考えられます。
 これとは別に、この逸史の中に興味深い記述を発見しました。 逸史中身
逸史中身

 右の写真の部分にあるように、土屋惣蔵として知られる武田二十四将の一人である土屋 昌恒」について、第4巻の天正10年の条には「土谷昌恒」として記述され、第6巻の天 正17年の条では「土屋直村」の弟「昌恒」という風に書かれています。直村は、昌恒の 兄土屋昌次の別名です。逸史の中ではこのように同じ人物が「土谷」と「土屋」と書き分 けられています。書き間違いの可能性が無いとは言えませんが、先の大久保長安の例もあ るのでこれは見過ごしにはできません。しかし、歴史上かなり著名なこれらの人物につい て、異説を唱えるのは大変なことです。
 以下、土屋昌恒に関して、ちょっとばかり調べてみました。
 武田信玄は自らが追放した信虎に従って土屋氏が甲斐を去った後、その名跡を金丸氏に 継がせました。金丸虎義は土屋氏血筋の女を室としていました。長男の金丸平三郎昌直は、 天文7年21歳の時、信玄の弟信廉の家来・落合彦助に討たれたため、次男の昌次が嗣子と なりました。永禄4年、この昌次(金丸平八郎)は17歳で信玄に従って四期川中島合戦に 近習として初陣、その功を大とした信玄は、譜代の家人・土屋の名跡を継ぐように命じ、土 屋平八郎昌次とし22歳という若さで百騎を預けられました。五男が金丸惣蔵で、13歳 で初陣をかざります。武田に麾下し、武田水軍の将となった岡部忠兵衛が惣蔵の戦振りに 一目惚れして、養子にもらいたいと信玄に申し入れ、この養子縁組みを機に信玄の命で岡 部共々、土屋に改姓しました。
 また、「土屋氏族の歴史(後編)」(土屋政一著:p.92)によると、土屋昌恒を先祖とする 長野県にお住まいの土屋さんの家には、昌恒が武田信虎の弟僧瑞光院和尚に宛てた「頼状」 などの遺品が伝わっているとしています。その頼状には「甲州天目山田野村に於て 天正 十年三月十日 土屋惣蔵昌恒」と書かれているそうです。
 こうしたことから考えて、土屋昌恒が「土谷」であった可能性はないように思われます が、ここで、次のようなことを考えてみました。
 同じ長野県の軽井沢に住む土屋さんに伝わる、過去帖から編集した系図によると、先祖 は鎌倉時代初期に上総の国から移ってきた土谷小太郎義忠という人物ですが、17代目ま で「土谷」であったのが18代目から「土屋」を名乗るようになります。元和8年(16 22)に68歳で亡くなった17代目半左ヱ門義広は上州多野郡鬼石村の土屋喜内の娘を 娶っているのですが、このことが土谷から土屋に変わった理由ではないかとも考えらます。 つまり17代目が結婚を機会に土屋姓に改め、その後の子孫は土屋を名乗ったのではない かと思われるのです。天正10年(1582)に土屋昌恒が天目山で亡くなった時には、 17代目は28歳で存命している計算になり、時期的に同時期ごろに土谷から土屋に変わ った可能性があります。この時期の甲斐やその周辺では何らかの理由で土谷姓を土屋姓に 改めるようなことが相次いだのでしょうか。
 田野から直線距離で10数キロ南方のところに静岡県富士吉田市があります。ここに古 くから住んでいる土谷さんの中に、武田信玄の家臣であった土屋氏を先祖に持つと言われ る家があります。このかたの先祖の場合16世紀末ごろに土谷から土屋へと改姓する機会 を逃したため、現在まで土谷姓で伝わっているのでしょうか。
 大久保長安は、猿楽の金春流の金春喜然の息子で大蔵十兵衛という名前だったと伝えら れ、「野史」によると武田信玄から土谷姓を賜ります。金丸虎義の五男惣蔵は、岡部忠兵衛 の養子となり、同じく武田信玄から土屋を名乗るように命じられたとされます。
 私は、これら土谷半左ヱ門義広、土屋惣蔵昌恒、そして何と名乗っていたか知りません が大久保長安、の3名は、初め「土谷」を名乗っていたものが、その後「土屋」に改めた のではないかと考えるのです。それは、相模の名門土屋氏の直系ではないことが理由なの か、あるいは3名に共通した何らかの理由、例えば、出自、地位、親の職業といった何か に関連した姓として「土谷」を名乗るよう命じられたのではなかったかと考えてみたので す。そして16世紀の後半ごろ、一部の土谷さんは何らかの理由で土屋に改めたと。
 話は少しそれますが、大久保長安の父親とされる金春喜然の「金春」についてです。能 の起源については、春日大社の若宮御祭りで行われた演能として行われた大和猿楽の座だ とする説が有力なのだそうです。この大和猿楽が、後に大和四座(後の観世、金春、宝生、 金剛)として能楽として大成していくことになるわけです。甲斐の金春喜然のルーツも大 和猿楽にあったのではないかと思われます。昌恒の最後の地である天目山田野というのは 現在の山梨県大和町にあり甲斐大和と呼ばれている地域です。奈良県の大和と甲斐大和と は古い時代から深いつながりがあったのでしょうか。
 源頼朝の時代に大和猿楽がどのような段階にあったのかまだ調べておりませんが、大分 県国東の大岩屋というところに住む土谷さんに伝わる話として、先祖は畿内に住んでいた が、源頼朝に呼応して戦いに出て行き、その功績を認められて「土谷」の姓を賜り土地を もらった。息子たちのうち、長男は相模に住み、次男は畿内に戻ったというのがあります。 国東の三畑に住む土谷さんに伝わる話では、源頼朝に土地を賜った初代の名前が土谷小太 郎久継だとし、その子孫が相模から船で移動し国東に移り住んだとしています。軽井沢の 土屋さんの先祖である土谷小太郎義忠が亡くなったのが文治2年(1186)、家紋は笹竜 胆だそうで源氏との関係を感じさせます。そして、国東の土谷さんの先祖の土谷小太郎久 継が源頼朝に土谷姓を賜ったのが、偶然にも義忠の亡くなった年である文治2年だとされ ているのです。
 大和にルーツを持つとする国東の土谷さん、土谷という姓を鎌倉時代の初期から名乗っ ているとする軽井沢の土屋さんと国東の土谷さんの先祖、猿楽という糸で大和とつながっ てきそうな大久保長安、その長安が武田信玄から土谷姓を賜ったという野史の記事、土屋 昌恒に関して「土谷」と「土屋」を書き分ける逸史の記事、土谷から土屋に変わった軽井 沢の土屋さん、甲斐の土屋氏を先祖に持つとする富士吉田市の土谷さん、これらが何かど こかでつながっているのではないか、その謎を解く鍵はどこにあるのだろうと考えてしま うのです。
 
《追伸》
 放送大学大学院の試験結果ですが、12月16日に通知が届き、残念ながら不合格でし た。また、再挑戦します。
 11月1日付けで、勤務先で異動がありました。新しい部署では1月末に社員旅行で大 阪に行くことに決まってました。ラッキーなことに、初日の夜の宴会以外は自由行動にな っております。土谷さんが多く住む、堺市の栂(とが)と、その地の桜井神社のことは以 前のメール新聞でもお伝えしましたが、その栂を訪問してこようと考えています。

連絡先:  〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
      電話・FAX:093−617−1774
      電子メール :shige@tsuchiya.com       2001.12.20  土谷重幸

=================================================================
土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com http://www.tsuchiya.com/