土谷さんメール新聞     第10号

                           2002年5月6日発行

 今年になって、1月末の会社の旅行の際に、奈良県桜井市と大阪府堺市栂を訪問する機会があったのですが、メール新聞にまとめるのが大変に遅くなってしまいました。10号では桜井市を中心に藤原氏を介して豊後とのつながりについて、そして11号では堺市の話題から陶器を介して佐賀県唐津と山口県須佐町とのつながりについてまとめてみました。

 

(1)   桜井市上之庄

 1月25日午後桜井市を訪問しました。事前に約束を取っての訪問ではなかったのでしたが、3時間余の短い滞在の割には収穫がありました。

 

 近鉄桜井駅からバスに乗り、上之庄に一番近いと思われるバス停で降り、そこから歩いて10分ほど、目的の場所に到着しました。地図で見当をつけていましたが、田圃が広がる中に一つの集落が固まっているというような地域でした。典型的な環濠集落で、明治時代の記録でも今と変わらない60軒ほど家が集まっています。数十年前まではこの集落の周りを濠が巡り、木立に囲まれていたそうですが、今は木立はなくなり、濠の一部は埋められているようでした。

 この上之庄では平成8年に8世紀の藤原京の「京極道路」跡が発見されました。

右の写真と文章は、桜井市教育委員会の冊子からの引用です。

テキスト ボックス: 「上之庄遺跡から、藤原京の東の端を区画する東十坊大路と呼ばれる道路跡が発見されました。藤原京は中国の都城を手本として、わが国で初めて条坊制を採用して本格的に造営された都で、持統天皇の8年(694年)に遷都されました。近年の調査成果から京域がさらに広がるのではないかと考えられ、従来の藤原京という呼称に対して大藤原京という名称があたえられました。
 今回発見された東十坊大路は道路幅が17mの我が国を代表する都よりも大きくなる事が解もある南北道で、長さ85mにわたって検出しています。また、道の両端には排水のための側溝が設けられ、溝の中から須恵器・土師器などの土器片や馬の足や下顎の骨がたくさん出土しました。今回の発見により、桜井市域も藤原京域に大きく取り込まれることとなり、藤原京は平城京・平安京などの我が国を代表する都よりも大きくなる事が解りました。
 (広報「わかざくら」発掘調査現場から(H8年no.125)より抜粋)」
今回の訪問では、住宅地図を頼りに数軒の土谷さんの家を訪ねたのでしたが留守で、4軒目の土谷(つちたに)さんの家で一人のおばあさんと話ができました。土谷の先祖についての話はほとんど聞くことができませんでしたが家紋が「梅鉢紋」だということにちょっと驚きました。この方からこの地域の神社のことと、地域の区長をされていたという方を紹介していただき、神社を訪ね、その後、元区長さんの家を訪ねて、いろいろとお話しをお聞きしました。

見せていただいた明治15年の上之庄村史によると、明治9年の調べで52戸の家と7戸の社があり、男125人、女127人が住んでいるとなっています。この3分の1ほどが土谷さんだったとされ、今でも60軒中の15軒を越える土谷さんがおられます。

テキスト ボックス: 【殖栗神社】
 上之庄集落南西隅、寺川の右岸に鎮座。もとは同集落北東隅の初瀬川南岸、上街道のすぐ西、小字江繰にあったと伝える。祭神は殖栗王・天児屋根命。
「延喜式」神名帳の城上郡「殖栗神社」とされるが、江戸期の石灯籠には「三十八社」と刻み、明治七年(一八七四)頃までは三十八社神社と称していた。同四〇年小字十ノ森(とうのもり)にあった春日神社を合祀、十ノ森の近くに字江繰があったため社名を殖栗神社と改めた。春日神社の祭神は不詳であるが、江戸初期には「藤森(とうのもり)、六神」と記され、六柱の神を祀っていた。殖栗については「日本書紀」に殖栗王・殖栗皇子の名がみえ、また「春日社記」に、鹿島(現茨城県鹿嶋市)の神を大和へ奉遷する際、随行の時風・秀行に殖栗連の姓を賜ったことが記されている。 
  (−大和・紀伊『寺院神社大事典』−)
テキスト ボックス: 【興福寺】
 興福寺は藤原氏の氏寺で、始祖藤原鎌足の遺志をついだ夫人の鏡女王(かがみのひめみこ)が山城国山科に創建した山階(やましな)寺にはじまる。
その後、天武天皇により大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都が移されると、寺も高市の厩坂(うまやさか)に移され厩坂寺と呼ばれた。
 さらに和銅3年(710)の平城遷都とともに、鎌足の子の不比等(ふひと)によって現在地に再度移され、名も興福寺と改められた。
平安時代には広大な荘園を持ち大いに権勢をふるっていたが、治承四年(1180)、源頼政が挙兵し敗れるや南都に逃亡をはかった。元来藤原氏はその侍として源氏を起用していたので、残党は南都や南大和の源氏党のもとに逃れた。これの追求と南都の反抗をおさえるため、平重衝は兵を南都に進め焼き討ちをかけたので、興福寺もほとんど全伽藍を焼失した。
その後再興され、中世には大和守護職の実権を握って大和一円を支配し、数万の僧兵をかかえてたびたび京都の朝廷に強訴したりした。やがて南北両朝の対立がおこると、興福寺もその渦中にまきこまれ、地方武士の成長もあって次第に勢力は衰えていったが、文安元年(1444)と享保2年(1777)の大火にあって、まったく復興の望みもないまでに衰えてしまい、明治の廃仏毀釈では一時廃寺となり、五重塔を売る話まで出た。
(http://www.nara-edu.ac.jp/CITY/kofukuji.htm より抜粋。)
村史には、大和国式上郡上ノ庄村として、三輪大神神社郷に属す、となっていて、慶長17年に信長の弟織田長益の領地となり、その後、明治時代に藩が廃されるまで織田氏の領地だったと書かれています。

図書館で調べた別の資料では、上之庄は、荘園時代には藤原氏の氏寺であった興福寺の荘園であったと書かれていました。

元区長さんの話によると、昔はこの大和盆地は沼地で、川を通じて瀬戸内海とつながっており、難波から舟で来ていたそうです。左下の地図は、明治時代後期のごく短い期間に走っていた軽便鉄道が描かれているという珍しい地図ですが、この地図の左上のほうに上之庄があり、右上方あたりが大神神社、中央下あたりに桜井駅があります。この地図からも上之庄が田圃に囲まれた集落であったことがわかると思います。

この上之庄の環濠集落は東と西に入り口があり、東側の入り口にあった地蔵様の裏には室町時代の年号が彫られていたので、それ以前はわからないが、おそらく地蔵様に彫られた時代からは、ずっと50〜60軒の集落が続いて来たに違いないと思われるということでした。その地蔵様はジャスコの工事の際に移設され、ジャスコの裏手に作られた祠の中に安置されているそうです。祠に入れられる前に撮ったという写真を見せていただきました。

元区長さんの家を出て、上之庄から見た三輪山を撮影、大神神社もタクシーを待たせて写真撮影、三輪神社近くの極楽寺(浄土宗)に何軒かの土谷さんの墓があると聞いて、そこの写真も撮ってきました。またゆっくりと時間を取って訪問したい場所です。

 

(2)国東半島、大岩屋の土谷系図

 この桜井市の土谷さんについては、豊後の土谷さんとのつながりにおいて大変に興味のあるところですが、今回の訪問では、直接土谷さんの先祖の史料を見せていただける家を訪問できず、次回以降に持ち越しとなりました。以下、国東半島の土谷さんの記録などを元に、桜井市と豊後のつながりをあれこれと推測してみたいと思います。

テキスト ボックス: 大和國藤原氏始
 宇多郡太利峯 大菩薩┐         
 ┌─────────┘
 │   但大臣之被定下所也
 │ 始位等也事中納言朝臣ニ清原之實
 │ 隆ト申者也殊男子三人女子貳人有
 │ 此等之起無紛候然男子壱人者山
 │ 城國之住人也一人者攝津國住人
 │ トナレリ
 └常陸重實──────────實守──重相──長總──宗近┬定守
   男子三人有一人者攝津國之               ├永清
   少納言依無子養子ト成且                ├長定
   重吉朝臣成申                     ├重次
                              └守次─春宗─┐
   不埋尾籠君仕等之事無紛      ┌────────────────┘
   公方様毛別而御感有露命      └道光┬吉重─┬近實─┐
   カエリミス重實也            ├行久 ├定實 │
   重吉朝臣成申置實行思ケル        ├守行 ├定行 │
   様譬叶天道申ケルト寝覚ニ        ├定重 ├信家 │
   モ終言ヲ申明シタルハカリ也       └定守 └高次 │
 ┌─────────────────────────────┘
 │ 相模國住人
 └土谷小太郎久継──────────┬土谷三郎持継
    相模國鈴木丸ヲ領       └土谷又四郎吉継──
       御奉書
 
  頼朝公御朱印
    依功アルニ令領地之所
    之右末世違乱之輩
    右之者流罪死罪被
    行候由仰下事實正
    也
 真玉町三畑の土谷家に残る文書に以下のような系図が伝わっています。

実は、同じ真玉町の大岩屋というところに伝わっている系図にもほとんど同じ記述があり、一部に違いが見られるその違いにとても興味があるのです。この系図は、江戸時代に伝わっていたと思われるものが昭和20年代に襖の下張りから、かなりの量の古文書が見つかり、それらを土谷五六二さんというかたが書き写し、まとめたとされるものです。残念ながら、その下張りの現物は行方不明なんだそうです。この五六二氏が書かれた「尊族研究大論文(壱)」(昭和二十四年正月吉日)からの引用を、三畑土谷家の系図と比較しながら推論を進めて行きたいと思います。異なっている部分を太文字で表しています。テキスト ボックス:   大岩屋土谷家系図より

重實────────實守──重相──長經──宗近──┬永清
                            ├長定
                            ├重次
                            └守次─春宗─┐
                  ┌────────────────┘
                  ├行久
                  ├守行      ┌定行
 ├道光──吉重──┼近實─┐
                  ├定重      ├信家 │
                  └定守      └高次 │
 ┌─────────────────────────────┘
 └土谷小太郎久継──────┬土谷三郎持継
   一八五二年頃      │ 長子三郎持継ハ関東方面ヘ
    姓ヲ土谷ト改ム    └土谷又四郎吉継──────────
相模国鈴木丸ニ住    藤原姓ノ者ナルニ付
     頼朝公ノ御朱印アリ    流罪ノ形式トナリ
             関西方面ヘ

三畑系図と兄弟関係や親子関係が異なっていますし、三畑系図では「定守」という人物が「宗近」の長男および「道光」の末子として二度登場しているところが大岩屋系図では、同名の人物は登場しないなど、断定はできませんが三畑系図のほうが写し間違いではと思われるような箇所もあります。一八五二年とあるのは皇紀によるもので西暦1192年にあたります。

テキスト ボックス: 阿形には
            藤原氏
土谷徳右衛門信貞
奉彫刻金剛神仏法修護攸  土谷与三助尉信○
同 氏
後藤与三右衛門守
吽形には
国家    藤原臣
金剛薩埵護法攸具固    土谷徳兵衛信○
      安○攸   同代土谷惣兵衛信○
            同代土谷善兵衛信兼

(真玉町誌 P三五零)
大岩屋系図では、この又四郎吉継以後六代ほど不明としており、大岩屋における初代は「土谷六郎左エ門信勝」という人物で、延徳年間(1489-1492)の生まれで、天正8年(1581)に亡くなったとしています。大岩屋に居を構えてから昭和24年(1949)までに約390年近くになると書いてあるので、西暦1560年ごろに信勝が70歳のころ国東半島に着いたということになるのでしょうか。

大岩屋に応歴寺という天台宗の寺があり、そこの羅漢様の近くに洞穴があって、その中に先祖8代の法名が刻まれた石が見つかったそうで、系図とその石に刻まれた法名とが一致したことで先祖の墓が確認できたと記されています。私自身はまだこの洞穴に入ったことは無く、ぜひ機会があれば五六二氏の子孫のかたに案内していただこうと思っています。

この応歴寺の境内には、時期は不詳ですが形式は江戸以前のものとされる石の仁王像があります。真玉町誌(昭和53年発行)の350ページにはこの仁王像についての記述があり、「・・・・国東半島仁王のなかでは代表的傑作といわれている。江戸時代初期か或はそれを遡る作と推定。両像の背面に左の銘文がある。」

銘文に彫られた土谷氏は「信」の字を通字としているが、大岩屋系図でも初代が「信勝」で、四代目も同じ「信勝」を名乗っている。近い筋だったのだろうか。

 

(3)   土谷ストーリー

 今回の桜井市訪問で、瀬戸内海から舟で行き来していたと知り、これについては、メール新聞第7号で書いた、私の想像があたっていたと、嬉しかった。そこで、今回は桜井市の土谷(つちたに)さんと国東半島の土谷(つちや)さんがどこかでつながるのではという微かな期待を抱きながら、いつものようにいろいろと空想してみた。

 《緒方氏と三輪山》

 平家物語の緒環の段には、豊後の緒方惟栄の先祖が大蛇である逸話が語られ、これは三輪山に伝わる大蛇伝説と同じものです。大神神社に伝わる「三輪山縁起」の異本とされる「三輪叢書」によれば、緒方氏の先祖である大神比義は、三輪君と共に大田々根子の子孫であり、宇佐八幡祠官の祖であるとしています。

 《豊後と藤原氏》

豊後と藤原氏の関係で言えば、平安末期に文語の知行国主となった藤原頼輔がいます。彼は息子の頼経を豊後守として豊後に派遣し、頼経は更に息子の宗長へ豊後守を譲っています。頼輔は永万2年から元暦元年(1184)までの18年間豊後の知行国国司でした。

《源平合戦》

藤原頼輔と緒方惟栄とは当時の宇佐神宮と対立するという点で互いに反平家の立場に立つことで連携を深めたと思われ、更に壇ノ浦での平家の滅亡後は源義経に味方することでつながりを保っていたようです。源頼朝による義経討伐の命令の際、後白河上皇は義経を西国に逃れさせようと藤原頼輔を通じて緒方惟栄に命じたようです。結局、大物浦で暴風雨に会い、船が転覆し、緒方惟栄は頼朝の兵に捕らえられ鎌倉で沼田への流刑を命じられるのです。義経は吉野山に逃れるわけですが、これも藤原氏が関係しているかも知れません。2ページの囲みの「興福寺」についての引用に「治承四年(1180)、源頼政が挙兵し敗れるや南都に逃亡をはかった。元来藤原氏はその侍として源氏を起用していたので、残党は南都や南大和の源氏党のもとに逃れた。」とあることからの想像です。

《関東御分国となった豊後》

平家滅亡後、源頼朝は知行国として豊後を望みますが、これは豊後国司が義経に味方しているので彼らを追捕するためとしています。この要求を朝廷は受け入れ、豊後は頼朝の知行国である関東御分国となるのです。唯一、関東以外の「関東御分国」なのです。

大岩屋に伝わる土谷の先祖の系図の記述からは、三畑土谷家のそれにはないメッセージが含まれています。そこから想像をたくましくすると、こんなストーリーが出来てきそうに思うのです。

国東半島の土谷さんの先祖と桜井市上之庄の土谷さんとは、鎌倉時代以前には同じ先祖を持っていたのではないだろうか。そして、源頼朝の挙兵に応じて反平家側として何らかの働きをした。平家滅亡後鎌倉に出て行き土谷姓を賜わるが、後に、緒方氏とのつながり、あるいは源義経とのつながりを疑われ、父の久継は死罪、兄の持継は緒方惟栄と同じく沼田(群馬県沼田市)か、あるいは関東の別の場所に流罪、弟の吉継は関西に流罪となった。吉継はその後、先祖ゆかりの地である上之庄に住み、帰農する。持継は後に流罪を解かれ、関東のどこかに住む。もしかしたら群馬県下仁田町青倉かも知れない。そして6〜7代後、16世紀半ば過ぎ、持継の子孫が船に乗って国東半島にやってくる。また、吉継の子孫も別のグループとして国東半島にやってくる。こうして国東半島では違い鷹の羽紋(下仁田町の土谷さんに多いらしい)の土谷と、梅鉢紋(桜井市で一軒発見)の土谷の2大勢力を中心に子孫が増えていくのである。緒方氏の領地であった緒方町に近い大分県三重町の土谷さんに違い鷹の羽紋が多いのは、群馬県に流されたグループの子孫であることを裏づけるか?

 

(4)   終わりに

 桜井市の土谷さんの中には系図などの史料をお持ちの家がきっとあるに違いない。国東半島に残る系図に登場する名前と同じ名前がそうした系図に載ってないだろうかという期待を持っています。今度は事前に約束を取り、時間を十分に取ってから再訪問したいと思います。思いがけない発見がありそうな気がするのです。

 桜井市の翌日に訪問した堺市栂でも興味深いことがわかりました。ここでは土谷さんの先祖の墓に「土屋」や「槌谷」という苗字が彫られているのを見ました。関西、特に奈良県はツチヤと読む姓で漢字が異なる姓の種類が一番多いところです。堺市でもそうした傾向があるらしいとわかります。なかなか簡単に謎は解けませんが、面白いテーマです。

 堺市栂については、1962年から20年余りに渡る非常に大きな規模の宅地開発が行われ、それに伴って古代須恵器の一大産地の発掘が行われました。5世紀から10世紀にかけて須恵器を生産し続け、その製品は九州から東北地方にまで流通しました。栂地区は、大きく6つの地区に分けられる須恵器窯跡群の一つで、今回訪問した土谷さんの先祖の墓地は、まさにその窯跡群の地域内にありました。

 次回のメール新聞では、堺市栂の訪問報告と、九州の岸岳唐津焼、山口の須佐唐津焼など焼き物と土谷の関係について考えてみることにします。

 

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電子メール :shige@tsuchiya.com       2002.5.6  土谷重幸