土谷さんメール新聞 第11号
2002年8月4日発行
(1) 大阪府堺市栂
1月26日、堺市栂(とが)を訪問しました。
この地域には、今でも20数軒の土谷さんの家が、丘と丘に挟まれた窪地のようなところに集まっており、かつては多くの土谷さんがおられたことが想像できます。左の写真に写っている家の半数ぐらいは土谷さんです。
このあたりでは、泉北ニュータウンと呼ばれる国内でも最大級の土地開発が行われた結果、古墳時代中ごろから平安時代に活動を停止するまでの500年間、日本最大の須恵器生産地として存在した古代テクノポリス跡とでも呼べる地域であったことが分かってきました。1962年からの20年余りの調査により、千年余りの眠りを破って600基余の窯跡、数十基の古墳、多数の住居跡などが発掘調査されたのです。
日本書紀に茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)と記されたところからとって陶邑と呼ばれるこの一帯の須恵器窯跡は600基以上確認されており、本来は1000基前後あったのではないかと推定されているそうです。東西約15km、南北約10kmの範囲に広がり、6つの地区に分けられます。それぞれの地名、池や山の名称をとり高蔵寺地区(TK)、光明池地区(KM)、大野池地区(ON),谷山池地区(TY)、栂(とが)地区(TG)、陶器山地区(MT)、と呼んでいます。
発掘された須恵器は、推定される年代によりT型式(5世紀)からX型式(9世紀)までが確認されていて、窯によって形や器種の違いが見られることから、技術者は複数の地から渡来したことが窺えるそうです。
平安時代末期に活動停止したとされるこれらの須恵器技術者と、現在栂地域に住む土谷さんがつながるかどうかについては史料も言い伝えもなく、いつの
時代から住んでいるかについてなど全く手がかりのない状態です。ただ、土谷さんの集落と墓地、それに、現在土谷初治さんというかたが氏子総代を務める、この地域の氏神様である桜井神社の位置関係を、発掘された窯跡の分布に重ねてみると、陶器山地区と栂地区の二つの窯跡群の谷間に位置しており、大阪湾に流れ込む石津川の流域に住んだということがわかります。栂から石津川を10キロほど下ると「百舌鳥(もず)」というところがあり、そのあたりには仁徳天皇陵を始め、大型の古墳がたくさん残っている地域です。こうした古墳の周りの埴輪なども栂などで焼かれ、舟で運ばれたのだろうか、などと想像してみました。
櫻井神社はその由緒略記から引用すると「・・・桜井朝臣一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。推古天皇五年(五九七)八幡宮を合祀、上神谷(にわだに)八幡宮とも称し、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。」とあり、境内には鎌倉時代前期に建てられた拝殿があり、国宝に指定されています。
櫻井神社拝殿(国宝)
奈良県桜井市とは関係がないようですが、近くの鉢が峰というところにあった国神社(櫻井神社から南に約3キロ)の御神像(鎌倉初期のもの)が櫻井神社に残されており、この国神社について「大阪府全志」という書物には、「・・・その社名を国神社といへるに就て連想するは、大巳貴命即ち大国主命なり。大国主命は天羽車大鷲に乗りて妻妾を覚め、茅淳県に行きて大陶祗の女活依姫を娶りて妻となし給ひしこと見え、その大陶祗の居りし所は本地に近き陶器荘即ち古の陶邑なれば、此の地は同大国主命の天降りの所なるを以て大和の三輪と同名なる神郷(みわごう)の称起こり、大国主命を祀りて国神社の名を為せしも、後天照大神を配祀するに及びて大国主命の祭神たりしことを忘れ、単に大国主命に因める此の社名のみを残せしものにはあらざるか。泉州志にも此の鉢峯は陶邑に近ければ、大巳貴命の天羽大鷲に乗りて天降りし地にして、後垂仁天皇の御宇天照大神を祀祭せしものかと記して之を疑えり。暫く記して後賢の研究を俟つ。」(文中の旧字体の一部を新字体にしています。)と書かれており、桜井市の大神(おおみわ)神社とのつながりを窺わせると述べています。
この栂地区の土谷さんの墓地にも案内してもらいましたが、墓の中には「土谷」の他に、「土屋」や「槌屋」と彫られた江戸時代のものと思われる墓石もあり、「つちや」という読みにいくつかの異なる漢字を当てていた時代があったらしいことも窺えました。こうした事例は他の地域の土谷さんの集落にも見られることがあり、すぐには結論が出せないものでもあります。
なお、この土谷さんの菩提寺は「法道寺」だそうで、鉢が峯というところにあり、国神社に接して位置しているそうです。過去帳などを見せていただこうと電話をしましたが、プライバシーの関係でと断られました。栂の訪問を終えて、近くの考古資料館、そして図書館に行ったのですが、図書館の入り口に大きく「身元調査お断り運動推進」と書いた看板が置いてありました。ルーツ探しの旅は、こうした人権問題の壁との調和を大事にしながら進めなくてはならないという思いを強くした一日でした。
(2)
土に点
全国の土谷さんの中には「土」という字に点が付くかたがおられます。これについて丹羽基二さんというかたの「苗字に生きるやまとことば(青春出版社)」という本に、こんな記述がありました。
「土野はツチノとふつうよむ。しかし土(点付)野さんは、ハノとよむ。ハノの語源はハニノで、これを略した形とみられる。土(つち)といえばいろいろな土がある。泥は、どろどろした水をふくんだもの、ツチはいっぱんにふつうの土壌で、特殊な色(赤、黒、茶など」もしていないもの。いわゆる土色で、ねばり気もなく、砂ほどでないもの、ハニは、ねばり気のつよい、茶色や赤味をおびたもの(中には黒もあるが)で、器などにするものが多い。
土(点つき)野さんがハノとよませたのは、このハニの土を強調しているらしい。それでツチノとかドロノとか呼んでもらいたくないのだ。」
また、点が付く位置が「土」の上の横棒と下の横棒の間になる場合、ヒジと読み、ハニよりも水気が多く重い土を表すのだとか。土(下に点)野(ヒジノ)さんという苗字もあるそうだ。窯をやっているというこのヒジノさんの先祖は「土師(ハジ)」だったのだとか。
「つちや」さんの多くは、「土」や「焼き物」に関係した先祖を持つのかも知れません。そして、奈良県や大阪府は「つちや」と読む苗字について、様々な漢字が当てられる苗字の種類がもっとも多く分布する地域です。この地域で、まず「つちや」という苗字が生まれ、その後、漢字が当てられるときに、いろんな理由から、「土谷」「土屋」「土家」「槌谷」「槌屋」など、分かれていったということもあったのかも知れません。
(3)
須佐唐津焼
山口県阿武郡須佐町唐津というところに古い時代の窯跡が残っています。須佐唐津焼「唐瀧庵」の13代目に当たる土谷(つちたに)一水さんと14代目の土谷道仙さん親子は、現在萩市に移り住み店を構えていますが、陶器の粘土は須佐で掘ったものを持ち帰り作品を作り、そして焼くのも須佐にある窯まで持ち込んで焼いているそうです。
その由来書から引用してみます。
「私どもの祖先は遠く明徳元年(1390年)に大陸より我国に渡来した陶工で有りまして、始め田原道仙と称し肥前国唐津において開窯して、この地に約二百年間ほど製陶に励みましたが、文禄の役ごろ何らかの事情によって肥前の国唐津を去り長門国須佐郷に至り、此処に永住の適地を見つけ築窯して製陶に励んで居りました処、関が原の戦いに敗れた毛利公に従い、須佐領主となられた益田候(萩藩永代家老)の賞玩を蒙り、益田候の御用焼物師として(一八石五人扶持)取り立てられ、特に土谷の姓を賜って土谷鹿郎衛門と名乗り、益田候ならび毛利藩の御用品を主に製作し須佐唐津焼の名を世に広めるに至ったと伝え聞いて居ります。
初代鹿郎衛門は永禄八年に生まれ慶安三年九月八十六歳にて没す。爾来一子相伝、須佐焼の伝統を護り明治年間には十代道仙が宮内庁、御買い上げの栄を賜りました。
亦、先代六郎右衛門の時代には学会の手によって須佐古窯跡の発掘調査が行われ改めて己が祖先の偉業を知らしめられ、その子孫として何としても高麗の作風を再興しようとの悲願に駆られこの実現に向かって鋭意工夫を積み重ねた結果遂に須佐焼の雅に萩焼の優を、取り入れるのが最良の方法で有ると、尚一層の成果を上げる為、故郷より萩の地に、移り住み日夜努力精進を重ねている次第で有りますれば、何卒広くご用命を賜ります様偏にお願い申し上げます。」
唐津焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵で半島から連れてこられた陶工たちにあるとされていますが、須佐唐津焼に関する上記の由来書を読むと、それ以前から肥前唐津で陶器が焼かれていたようです。特に岸岳系唐津焼と呼ばれる焼き物は秀吉以前の唐津焼とされています。さて、講談社カルチャーブックスの「日本のやきもの」というシリーズの唐津焼のページを読むと以下のようなことが書かれています。
岸岳古唐津が秀吉の朝鮮出兵(1592年)以前にはじまったことは、いくつなの証拠で証明できる。
(1)
岸岳城山麓以外にも、室町時代に開かれたと思われる古窯がある。
(2)
堺市の環濠都市遺跡から古唐津陶片が出土しているが、その中の天正十三年(1585年)木簡と伴出した絵唐津小鉢は岸岳の道納屋谷窯のものと思われる。
(3)
天正元年(1573年)、織田信長に滅ぼされた福井県一乗谷の朝蔵屋敷の焼土層の下から、古唐津焼が出土している。その中に飯洞甕窯産と思われる叩き釉の上に飴釉をかけた叩き耳付花生の陶片がある。
(4)
天正十九年(1591年)に自刃した千利休所持の三筒の一つに奥高麗茶盌「子のこ餅」がある。胎土、釉の調子から飯洞甕窯か帆柱窯で焼かれたものと思われる。
(5)
昭和46年に行われた島根大学の浅海英三教授の熱残留磁気測定によれば、飯洞甕下窯の終わりは十六世紀末とのことである。
以下、同じ書物からの引用です。
「豊臣秀吉による朝鮮出兵は別名やきもの戦争といわれるほど、日本の陶芸界に影響を与えた。(中略)
岸岳城波多親(はたちかし)は七百五十騎を率いて出陣、部下の半数を失うほど苦戦して、文禄三年(1594年)正月、釜山に帰ってきた。同年二月帰国したが、途中船中にて秀吉の命を黒田長政から伝えられ、所領を没収され常陸の筑波山麓へ流刑となった。岸岳城はこの悲報に驚いたが、自由立退令が伝えられて城兵は四散し、城は寺沢広高があずかった。この時、岸岳陶工も各地に逃散した。」
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