土谷さんメール新聞     第12号
                           2002年10月29日発行
 今年は、NHK大河ドラマで「利家とまつ」が放映されているせいか、北陸地方の土谷さんに関する情報が、以前よりも多く寄せられてきました。今回のメール新聞ではこうしたみなさんからの情報を元に新たな調査結果などを交えながら、北陸地方の土谷さんを中心にまとめてみました。

(1) 能登、田鶴浜の土谷さん
 今年の3月1日のことでした。私宛に職場に一本の電話が入りました。鈴木さんとおっしゃるかたで、電話の声からかなり年配のかただと推察しました。そのかたは、私のホームページをご覧になり、縁戚に当たる土谷さんの情報を伝えたいということで電話をしてくださったのでした。業務中であったこともあり、簡単に内容をお聞きしただけで、その日は電話を切ったのですが、この電話がきっかけとなり、加賀や能登、そして越前の土谷さんについての様々な情報を整理することができました。
 電話の内容は以下のとおりです。
・鈴木三郎重家という人物の子孫が越前の白山の鳥越というところにやって来て土着した。天正時代に本願寺に味方し、織田信長勢と戦った。
・電話を下さったかたから数えて4代前、江戸時代末期に鈴木家から土谷家に養子に行った。この時代、養子のやり取りというのは家の格が同等でないとできなかった。土谷家も鈴木家も十村役(他の地域での大庄屋に当たる)であり、先祖は共に、それぞれの土地での豪族だった。
・土谷家の先祖は、能登の畠山重?の命令で加賀に派遣され、その後、この地の豪族として金沢に住んだ。
・数年前に、その土谷さんは東京に移った。
 これらのことから、その昔、能登の畠山氏に仕えていた土谷氏がいたらしいと思われ、早速ネット上で検索をしたところ、次のような情報が出てきました。
 浦野騒動
 このページの中の「浦野一党と加藤一派の対立」という項に「浦野騒動」と呼ばれる事件に関しての説明があり、浦野派の23名による誓文が紹介されていますが、その23名の中に「土谷八左衛門」という名前が出てくるのです。寛文5年(1665年)の出来事です。翌年、この騒動に関して加賀藩から判決が下り、死刑、流罪、追放、などの処分になるのですが、この土谷八左衛門がどうなったかについては分かりません。いずれにしてもこの時代にこの地域に土谷さんがいたことが分かります。
 この田鶴浜には七尾城の畠山氏の家臣であった長氏が館を築き3万1千石のこの地を治めるようになり、前田利家も長家21代目の長連龍に血判書を送るなど、能登における長氏を重要視していたことが分かります。浦野氏はこの長氏の家臣であったわけです。土谷氏はそのまた家臣というか、この地の郷士といった存在だったのではなかったでしょうか。
 神戸の鈴木さんの電話情報とこのホームページ情報から、時代は分かりませんが、能登畠山氏に仕えていた土谷さんがおり、そこから加賀に派遣されて金沢に住むようになった土谷さんがいたらしいこと、そして田鶴浜に残った土谷さんの子孫らしい八左衛門という人物が340年ほど前の浦野騒動に関係していたというようなことが考えられそうです。さらに、次項の敬栄寺の中で触れているように、一向宗側に立って一揆軍を支援したという面で、鈴木氏と土谷氏はつながっていたことも考えられそうです。
 ここで、電話で紹介された鈴木三郎重家については、以下のページなどによると、
  鈴木氏系譜
 源義経が奥州に逃れた際に、伴をした人物として知られるようで、これまでのメール新聞で何度か指摘しているように、ここでも源義経の影が見え隠れします。全国の鈴木氏の総本家とされる、この「藤白神社」は和歌山県海南市にあります。この神社に隣接して「鈴木屋敷」があり、源頼朝がここを訪ねてきたことから重家が家臣となったとされています。土谷さんの分布においても、この和歌山県海南市阪井および椋木に小さな集まりが見られることもあり、鈴木氏とのつながりが古い時代からあったのだろうかと感じさせる分布となっています。

(2) 金沢の土谷さん
 金沢市白菊町というところに敬栄寺という浄土真宗の寺があります。天文8年(1539年)、一向一揆の主導者の一人であった慶覚(洲崎兵庫)という人により、御供田村道場として建立され、その後現在の場所に移ったものです。御供田村は、現在の金沢市神田町一丁目にあたるそうで、白菊町から1キロもないほどの近くです。この寺の山号は「土谷山」となっており、この地の土谷さん、および土屋さんと関係の深い寺です。
 土谷家あるいは土屋家の系譜をみると、先祖は相模国の三浦義継の孫に当たる土屋義清。その子孫の土屋大学が文明8年(1477年)に加賀に入り、洲崎兵庫の娘を娶った。大学の息子の隼人は天正8年(1580年)一揆軍を率いて戦ったが、柴田勝家に破れ、長子は敬栄寺に、次子は慶覚寺の養子となり、三男は農民として御供田に住みついたそうです。この子孫は前田利家から十村役を拝命し、その後承応2年(1653年)には勘四郎が二千石代官を拝命、持高250石の豪農に成長しました。この勘四郎の子の又三郎義休は藩の農政改革に大きな功績を残し、農業書を多数著わすなどして後世に名を残しています。この土屋家の直系は西宮市に住んでいると、平成元年10月発行の公民館だよりに書かれています。
 金沢市電話帳によると、土谷(つちたに)17件、土谷(つちや)38件、土屋29件、土家1件、槌谷1件、となっており、全国では10対1の比率であるにも関わらず、金沢では、土屋姓よりも土谷姓がかなり多くなっています。敬栄寺山号の「土谷山」のことと考え合わせても、この地域が土谷姓にとって特別な地域の一つであることがわかります。ここでの、「つちや」姓と「つちたに」姓についての分布を見ると、奈良県のように集落単位で分かれているような状況はみられず、読みの違いによる分布の違いはなさそうです。ずっと以前からこうした傾向があったのか、それとも以前は読みによって分布が異なってたが、近年の人の移動により、混じりあったのか、判断するには手がかりになるような情報が必要です。
 メール新聞読者の一人で、数代前の先祖が金沢市の出身であるというかたから送っていただいたのですが、金沢市立図書館近世資料室所蔵の「加越能文庫」(金沢市文化財)に、この地の先祖由緒帳がたくさん収められており、その目録の中から「土谷」さんの部分のコピーを送っていただきました。それを紹介します。この「先祖由緒帳」は、藩士と呼ばれた人たちからそれぞれ藩に提出されたもので、このことからもこの地に藩に仕えた多くの土谷さんがおられたことが想像できます。丁数と冊数は由緒帳が何ページで何冊かということのようです。実際の目録を元に順序を入れ替え、親子と思われるデータが並ぶようにしました。

 氏名(別名、通称)  父の名  秩禄  成立年代   檀那寺  丁数  冊数 土谷森戸(満房、理兵衛)新左衛門正房 7人扶持 明治3 専光寺  4丁  2冊 土谷建進(建七、正玄)理兵衛満房 2人扶持 明治3   専光寺  2丁  2冊 土谷治平(治左衛門、静方)次郎兵衛静友 7俵  明治3 西源寺  3丁  2冊 土谷栄次郎(友好)  治左衛門  8俵   明治3   西源寺  2丁  2冊 土谷泉涓(克明)   逸翁慎明  30石  明治3   蓮昌寺  11丁 土谷左次馬(在明)  泉涓克明  200石 明治3   蓮昌寺  12丁 土谷 杢(九内、朝親)采女厚豊  130石 明治3   蓮昌寺  10丁 土谷卓親       朝親    130石 明治8   蓮昌寺  5丁 土谷新四郎(保之)  群陸    2人扶持 天保13       10丁 土谷庄次郎(正次)  嘉太郎正則 6人扶持 明治3   名願寺  3丁 土谷清平(信久)   清兵衛   7人扶持 明治4   敬栄寺  6丁 土谷伝七(芳続)   新左衛門  10俵  明治3   本福寺  3丁 土谷判平(僚)    吟六隆之  50石  明治3   妙典寺  6丁


(3)越前、越中などの土谷さん
 富山県氷見市の土谷さんについて、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーから見つけた情報をお知らせしましょう。
 近代デジタルライブラリー
 このホームページから、専用のビューアーソフトをダウンロードし、パソコンにインストールすることで使うことができます。また、以下の12行のデータをコピーペーストしてテキストデータとして保存すると、上記ページでの「しおり」データとして使うことができます。(文字化けするかも知れませんが目的のページは表示します。)
type=ndl-bookmark
4000864600001131=島上条村
4000864600001420=土屋氏居跡
4000864600002385=土屋昌次
4000864600002672=索引
4000864600001502=索引
400448820000319=土谷總蔵
400084230000075=土谷農場
410147380000116=金陵遺稿目次
410147380000252=土谷又蔵伝
400186570000362=土谷總蔵(逸史)
400186570000458=土屋直村、昌恒
 さて、この明治時代に発行された「富山県写真帳」には、次のようなコメント入りで土谷農場の写真が紹介されています。「142 土谷農場:氷見郡上庄村土谷要次郎の経営する所なり。開拓給水の状況播種施肥の方法等斯業者の範となすべきもの尠ならず」。
 現在の住所では氷見市柿谷というところですが、3軒の土谷さんが住んでおられることが電話帳から確認できます。そして、「氷見市の古墳」という以下のページには
   氷見市の古墳
「土谷山古墳群」というのが紹介されていますが、この場所が、まさにこの3軒の土谷さんが住んでおられる場所のそばで、詳細の地図で見ると左のような位置関係にあり、まるで、この山の入り口を守っているかのような配置になっています。土谷さんが所有する山なので「土谷山」なのか、昔はここに「土谷」という地名があり、そこに住んだので土谷姓を名乗ったのか、ちょっと面白いなと思いました。

 次ページに、現在の電話帳データを元にした全国の土谷さん分布図より、北陸地方を切り出したものを示しました。金沢市にもっとも多く集まっていますが、福井県福生市や鯖江市、福井市にも多く、また富山県にもかなり分布していることが分かります。越前、加賀、能登、越中、などにその歴史を刻んだ跡がこの分布から想像できます。こうした地域の情報をお持ちのかたがおられましたらぜひよろしくお願いします。
 金沢の由緒帳の情報を送ってくださった土谷さんからホームページに掲載されている古文書を紹介していただきました。
京都大学のページ
 1600年代の古文書らしいということで、富山県魚津あたりのもののようです。この写真の左末尾あたりに「土谷」と読める文字があります。次ページの分布図を見ると、この地域分布の東端あたりに当たる地域なので、関係があるかもしれません。

《越前、加賀、能登、越中の土谷さん分布図》


(4) 大分県三重町赤嶺の土谷家系図の謎
 過去の土谷さんメール新聞で紹介したことのある、大分県三重町赤嶺の土谷家系図ですが、この内容については疑問点が多くて偽作だと考えているのですが、今回の北陸の土谷さんについて考える上で、非常に興味深い記述が多く含まれているため、詳細の内容の真偽はともかくとして、あらすじを紹介しようと考えました。
 以下、その系図の概要を箇条書きにしてみます。系図の上辺の破損が激しく、文章が欠損していますが、おおよその流れは読み取れます。戦いなどの記述に登場する人名や城名など、実在しないと考えられるものも多く、この段階ではこうした名称は割愛します。
1)先祖は三浦一族の「土屋義清」。妻は畠山庄司二郎重忠の娘。
2)義清から数えて7代目の清隆とその息子清氏の二人は足利尊氏が越前金ヶ崎城に新田義貞の軍を攻めた時に尊氏側に加わり、戦功を上げたことで「土屋」を改め「土谷」姓を名乗る(暦応元年(1338年)ごろ)。備中4郡と備後3郡を賜わる。
3)9代目清晴は、戦いで戦功を立て、備後2郡を加増された。合計で備後5郡。その後、備後7郡に。
4)延徳年中(1489年〜)、14代清嗣は、越前の某氏が謀反を企てて加賀と越中に乱入した際に、足利将軍義稙の命令で出兵し、苦戦を強いられ敗走。罰として備中3郡と備後7郡を召し上げられた。
5)息子の15代清繁の代に、戦功を挙げ、備中3郡を加増された。
6)16代清綱の時代に、中国地方で戦があり、尼子氏と戦って破れ、九州に落ち延びた(享禄3年(1530年))。
7)清綱の娘婿17代目は大友家に仕え、宇佐郡於津房庄に知行1400貫を与えられた。
8)18代清季の代に、大野郡三重郷赤嶺に住んだ。
9)19代清朝と20代清景は文禄2年(1593年)、高崎城落城の際に逃走。その後三重郷赤嶺村に落ち着き、徳川の時代になったのを喜び、この地で手習児屋を開いた。
10)22代清種は(寛文元年(1661年)「一辺田八幡神社」の宮司になり、その後代々、この神社の宮司を勤める。

 さて、これを読んで、1)から、加賀の土谷さんとつながるかも知れないとも思えます。同じく土屋義清の子孫としている点や、先祖が、加賀、越前などで、何度かの戦に参加しているという記述からです。2)からは、この地方での戦に出て行った時に「土谷」姓を賜ったことがわかり、この地での土谷姓の存在根拠になるかもしれません。また、4)については、土屋大学が加賀に来た時期である文明8年(1477年)から12年後のことであり、時期的に近いことから何らかのつながりがあるかも知れません。
 畠山重忠の後家を嫁にした足利義兼の子・義純畠山の旧領と名跡を継いで源氏姓畠山氏が生まれ室町期に到りますが、その子孫の満則は兄・満家から能登一国を分離して拝領します。これが能登畠山氏の始まりです。赤嶺土谷家系図で義清の妻が畠山重忠の娘となっているのも、因縁を感じさせます。また、現在の土谷さんの全国分布を見ると、備中や備後には見られるが備前に当たる地域にはほとんど分布がないことも、赤嶺系図の内容を裏付けると思えなくもありません。もっとも、こうした地域を賜ったという記述は歴史事実に反していると思われますが。
 豊後に来てからの記述については、大友家の記録などと照合していけば、何かわかることがあるかも知れません。
 偽作の可能性が高いとは言え、明治初期に作られたと思われる赤嶺土谷家系図は、土屋義清の子孫であり、先祖の一団は南北朝の時代やその後の戦乱の時代に越前、加賀、越中などで戦をし、備中や備後の地を拝領していたことがあったということなどについて、100年余り前に記述しており、この内容が、金沢や能登の土谷さんの話と矛盾せず、現在の北陸や中国地方の土谷姓の分布状況を説明しているかのようであるというのは無視できないことかも知れないと考えるようになりました。そうなると、石川県、福井県、富山県、岡山県、広島県、大分県三重町、の土谷さん、更には和歌山県の土谷さんは、つながってくるのでしょうか?
 赤嶺系図では、土谷と名乗るようになった時期と理由についても述べられているのもちょっと嬉しかったりします。今後、系図の記述のうち、他の歴史史料などと照合して確認できる部分がないかなどの調査を進めたいと思います。

(5) 土谷史料
 江戸時代以前に、土谷姓が登場する主なものについて整理してみました。
 土谷小太郎義忠位牌(長野県北佐久郡軽井沢町の宝性寺)
   作成年代不詳、「本貫上総国豪族当地始元蒼生即当地開発土谷小太郎義忠」とあり、没年、文治2年(1186)没の記載あり。18代目より土屋姓に改姓。
 八幡神社の棟札(山梨県中巨摩郡敷島町島上条)⇒《(7)で詳述》
  大永4年(1524)の棟札に「土谷式部丞」の名が見える。弘治3(1557)と天正9年(1581)の棟札には「土屋右衛門尉」の名が見える。また、この神社そばに土屋屋敷跡があり、土屋昌次一族が住んだとされる。(「甲斐国志」より)
 土谷山敬栄寺(石川県金沢市白菊町)
   天文8(1539)創建の寺。土屋義清の子孫に関係する寺と伝えられる。
 土谷又四郎による送状(大分県西国東郡真玉町)
   天正18年(1590)に書かれた。豊後高田市玉津に住む、土谷朋夫さん宅に伝わる古文書。現在は大分県立歴史博物館に寄託されている。
 大久保長安が、武田信玄より土谷姓を賜る
  永禄4年(1561)ごろと思われる。(「野史」より)
 土谷總蔵、および土谷昌恒の記述
   「逸史」巻之四、二十二、天正十年の条に記述あり。
 赤嶺土谷家系図(大分県大野郡三重町赤嶺)
  明治初期に作成、暦応元年(1338)ごろ、戦功により土屋を土谷に改めたとの記述あり。土谷清隆となる。

(6) 豊後の芝崎城
 先に紹介した国立国会図書館のホームページ内の近代デジタルアーカイブですが、ここで「土谷」と検索すると、土谷総蔵という人物が引っかかりました。明治孝節緑という、この書物は、素行の悪かった人物が仏教の教えで改心するという物語を全国から集めて、まとめた書物のようです。これを読むと、土谷総蔵は明治初期に豊後の芝崎村に住んでいた人であることがわかります。調べていくと、この芝崎というのは現在の豊後高田市玉津という場所だと分かりました。ここには現在でも数十軒の土谷さんが住んでおられますが、メール新聞第9号で紹介した、幕末の和算学者土谷温斎も、母と共に大阪に出る前にこの地の親戚の土谷さんの家に身を寄せたことがあったことが記録に残っています。江戸末期から明治初期にかけてこの一帯の土谷さんの一つの中心地のようなところだったのかも知れません。 そして、ひょっとするともっと古い時代からそうだったのかも・・・・・・、
   賀来氏文書
によると、源義経は豊後の緒方惟栄に命じ、5つの城を建てるように命じたと書かれてある記録が残っているそうです。
「「賀来(かく)系図 」(「賀来八太郎文書」)によると、元暦元年(1184)3月、 源義経(よしつね) が緒方三郎惟栄(これよし)に命じて、豊前豊後に5城を築かせた。その一つが芝崎城(豊後高田市)、その二が高森城(宇佐市)、三が 犬丸城(中津市)、四が大畑城、五が塩田城(福岡県築城町)で、・・・・」
 この芝崎城があった場所がまさにこの芝崎村、現在の豊後高田市玉津の地らしいのです。メール新聞第3号の「土谷さんファンタジー」以来、源義経と土谷さんの先祖との関係についてあれこれと想像を巡らせて来ておりますが、またまた面白い話題が加わったなという思いです。
 次のページに、この芝崎城があったとされる場所と、この地の土谷さんの分布を紹介しています。電話帳データに寄れば、豊後高田市内の土屋さんはわずかに1軒。土谷さんは89軒あります。そして旧芝崎村を中心とした半径800メートルほどの狭い範囲に今でも50軒ほどの土谷さんが住んでいるというのは驚きです。全国でもこれほど限られた地域内にこれほど多くの土谷さんが住んでいる地域は他にありません。しかも土屋さんはわずかに1軒。数十年前にはもっと多くの土谷さんがこの地域一帯に住んでいたわけですから、いかに特別な地域であるかが分かります。 同じ大分県内でありながら、豊後高田市、真玉町、香々地町を中心とした西国東地方の土谷さんと、大野郡三重町の赤嶺や菅生の土谷さんとはルーツが異なるようにも思えます。しかし、どちらも相模の国とのつながりをそれぞれの先祖の歴史の中に語り継いでいます。やはりどちらも相模の土屋氏とつながっているのでしょうか?今回紹介した赤嶺土谷家の系図が大筋で正しいのならば、少なくともこの三重町の土谷家の先祖は三浦氏の血を受け継いだ相模の土屋氏であったということになります。


(7)甲斐武田氏と土谷
 山梨県中巨摩郡敷島町に、かつて島上条村と呼ばれたところがあり、そこの大庭(おおにわ)というところに「厩屋敷」という地名があり、土屋氏の屋敷跡と言い伝えられ、鎮守若宮を土屋神社として祀っている、と「甲斐国志」の記述にあります。八幡林という林の中に五輪塔が2基あるとも。さらに、産霊(うぶすな)八幡宮大永四年(1524)の棟札に、土谷式部丞等連名の記述があり、弘治三年(1557)と天正九年(1581)の棟札には、土屋右衛門尉修造の事とあるという記述があります。(大日本地誌体系44巻〜48巻「甲斐国志」:校訂 佐藤森三、佐藤八郎、小田和金貞)
 この大日本地誌体系に収められた甲斐国志は、文化11年に松平伊予守定能が幕府に献進された「献進本」を再発見し、それを底本として、山梨県に残る草稿本や各種資料を参考にしながら校訂作業を進めたもので、高い評価が与えられているものです。この昭和40年代に行われた校訂作業の「校訂者の言葉」の中で、原編さん者の松平定能について、「その編さんの態度は、主観に偏せず、独断を去り、きわめて科学的で博引傍証、読者に深い感銘を与える」と評しており、校訂者たちの態度と共に、この甲斐国志が「科学的」な姿勢を貫いた人たちによって受け継がれた貴重な資料であることがわかります。
 さて、そのようにして伝わる記録の中に、「土谷」と「土屋」が、同一の神社の棟札において書き分けられていることを伝えていることに非常に大きな意味を見出すことができると考えています。墓石や位牌に記された没年は、それらの作成された年を特定するものではありませんが、棟札に記された年号は、その性格からして、それが書かれた年を示すと考えても差し支えないと思います。もし現物が存在するなら、現時点で最も古い時代の「土谷」という文字が書かれた史料(軽井沢町の土谷小太郎義忠の位牌は、現時点では制作年代がわからない)ということになりそうです。しかし残念ながら、現物の棟札が過去の火災で焼失してしまい現存していないそうです。ただ、甲斐国志のほとんど全ての写本において3枚の棟札が「土屋」だとされるところを、原本である「献進本」に立ち返って、そのうちの1枚が「土谷」であることを伝えてくれた人たちの功績に大変に感謝します。そして、この地方の同じく16世紀についての記述の中に「土谷」という記録を伝えてくれた、松平定能(1758〜1831)と時代が重なる、中井竹山(1730〜1804)による「逸史」、飯田忠彦(1798〜1861)による「野史」にも、同じ姿勢を感じることができます。そして、芳野金稜(1803〜1878)による「土谷又蔵伝」についても、やはり「土谷」であったに違いないという思いも持つのです。
 この島上条の土屋氏居宅跡は、武田信玄の二十四将の一人土屋右衛門尉昌次(昌続)の屋敷跡とされています。彼は天文14年(1545)年に金丸虎義の次男として生まれ、永禄10年5月から11年正月までの間に土屋氏の名跡を与えられて土屋氏を称し、永禄12年(1569)7月から11月までの間に右衛門尉に改称しています。そして、天正3年(1575)5月21日の三河長篠合戦で戦死し、家督は弟の昌恒が継承しています。昌恒は兄の家督を継承し、天正4年8月から翌5年5月までの間に右衛門尉を称しています。そして、昌恒は武田勝頼に仕え、天正10年(1582)3月11日に田野という場所で27歳でなくなっています。(武田信玄大事典:芝辻俊六編/新人物往来社より)
 これらのことから、天正九年の棟札は昌恒によるものではないかと考えられ、大永四年および弘治三年の棟札については誰を指すかについては、はっきりしないと言うことになりそうです。また、昌次が土屋氏を称する以前、生まれる20年も前に、「土谷式部丞」なる人物がいたことを示すこの棟札。何かわかってくるといいのですが。 甲斐の武田信玄から「土谷」姓を賜ったと「大日本野史」に記されている大久保長安(1545〜1613)についてですが、武田氏の猿楽師であり金春喜然の息子として生まれ、大蔵式部太夫とも呼ばれました。兄の新之丞は土屋直村に属して土屋姓を名乗り、長篠合戦で戦死しています。長安も兄と同じころに土屋姓(土谷姓?)を名乗ることになったようですが、時期などについてはわかりません。兄新之丞が仕えた「土屋直村」ですが、「土屋昌次」と同一人物とする説と、別人とする説がありますが、いずれにしても、昌次、昌恒兄弟と大久保長安とは近い関係にあったことが窺えます。(国史大辞典:吉川弘文館、などを参照)以下、表に整理してみました。
西暦土屋昌次土屋昌恒大久保長安棟札出来事ほか
1521    武田信玄誕生
1524   土谷式部丞 
1539    土谷山敬栄寺 (加賀)
1545金丸虎義次男 金春喜然息子  
1546    武田勝頼誕生
1556 金丸虎義五男   
1557   土屋右衛門尉新之丞(長安の兄)土屋を称し直村(昌次?)に属す
1561  土谷氏?  
1567土屋氏を称す    
1569右衛門尉    
1573    武田信玄没
1575長篠で戦死 兄、長篠で戦死  
1576 右衛門尉   
1581   土屋右衛門尉 
1582 田野で戦死  武田勝頼没
1590    送状(豊後)
1613  死亡  


 16世紀の甲斐武田氏の下で、しかもこの表に揚げた3名について、野史や逸史の記述から「土谷」という姓が使われた時期があったらしいこと、更に甲斐国志の記述から、この3名に近い場所の神社の棟札に「土谷」という記述が見られることから、ここらあたりに「土谷」のルーツの謎が隠されているように感じています。 昌次らが名跡を継いだ名族甲斐土屋氏は相模土屋氏の後裔であるとされ、土屋宗遠から発しています。昌次らの父親の金丸氏も遠くは相模土屋氏につながる家柄なのだそうです。この宗遠は、治承4年(1180)の源頼朝挙兵に子息らと共に参加し、敗走後、再び勢力を増して平氏迎撃を企図する頼朝の命を受けて甲斐に下り、武田信義らの参軍を促すなどの活躍をします。ここに甲斐武田氏と土屋氏のつながりのルーツを窺うことができます。その後、承元3年(1209)、梶原家茂を殺害しようとして失敗、兵具召上げの上、和田義盛に預けの身となります。この縁からか、建保元年(1213)の和田合戦では一族挙げて和田方に組して戦います。この合戦後、土屋一族は衰退していくことになります。
 さて、この和田合戦で1213年に戦死した一族の中に、土屋義清がいます。加賀や豊後三重町の土谷さんの先祖とされる人物です。彼は岡崎義実の子で、宗遠の養子となり土屋氏を名乗るのですが、このことにより土屋氏は岡崎氏を通して三浦氏と親戚関係となります。この義清は、上総広常の領地を頼朝から与えられ、上総国武射北郷を地頭請所としていました。
 長野県北佐久郡軽井沢町の土屋さんの先祖に伝わる、宝性寺に残る位牌には「本貫上総国豪族当地始元蒼生即当地開発土谷小太郎義忠」とあり、文治2年(1186)没の記載があるそうですが「上総」というキーワードで「土屋義清」につながらないでしょうか?さらに、これまでのメール新聞で取り上げてきたことなどから、全国の主要な土谷さんが、結局は相模土屋氏につながりそうですし、三浦氏との関係が伝わっているという秋田県の土谷さんともつながってくる道筋が見えてきそうです。
 土屋義清という人物、戦国時代の甲斐における土谷と土屋、そして、今回は触れませんでしたが甲斐の金山との関係。こうしたところをもっと深く掘り下げていく中で、土谷姓のルーツが見えて来そうな気がしています。

連絡先:  〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
    電話・FAX:093−617−1774
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土谷重幸:mailto:shige@tsuchiya.com http://www.tsuchiya.com/