土谷さんメール新聞     第13号
                           2003年3月3日発行
 しばらくぶりに土谷さんメール新聞をお届けします。今回は、まずお知らせからです。
【お知らせ】
 PHP研究所が発行している月刊誌「歴史街道」(600円)の4月号(3月6日発売)の
連載ルポ記事「家系図をつくる人々」というコーナーで、土屋と土谷の混同に悩む私の活動が
紹介されます。どうぞお読みになってください。
 記事で紹介されている、某土屋会への私の手紙とその返事は以下のところに置いています。
     土屋会 土屋○○ 様

 ということで、今回のメール新聞はその記事を読んだかたが私のホームページを訪問
されることを想定して、これまでの調査を踏まえた、かなり大胆な仮説を披露してみようと
考えました。どこまでこの企てが成功するかわかりませんが、お楽しみいただければ幸い
です。今回の仮説はあくまでも歴史的に証明されているわけではなく、私の勝手な憶測に
過ぎないものであることは十分にご了承ください。

(1)源義経と産鉄族――まずは、仮説の材料集め。
 これまでに何度も義経については触れてきましたが、今回はそれらを再度紹介していく
中で、産鉄族との関係を整理し、土谷さんのルーツとの関連を推理しながら、一つの仮説に
まとめてみたいと考えてみました。
 まず、義経関係の略年表です。
1159平治元年 1歳京に誕生。父:源義朝、母:常盤御前。頼朝とは異母兄弟
1165永万元年 7歳このころ鞍馬山に入る。
1174承安4年16歳3月:奥州に下る。
1180治承4年22歳8月:頼朝、伊豆で挙兵。黄瀬川で頼朝と対面。
1183寿永2年25歳11月:義仲追討のため、範頼とともに京に向かう。
1184寿永3年
元暦元年
26歳1月:宇治川の戦い。義仲没。範頼とともに平氏追討に向かう。
2月:一ノ谷の戦い。
8月:検非違使左衛門少尉に任官される。頼朝、義経の無断任官に激怒。
1185元暦2年
文治元年
27歳1月:平氏追討のため、西海へ出発。
2月:屋島の戦い、平氏を破る。
3月:壇ノ浦決戦。平家一門滅亡する。
10月:頼朝、行家・義経追討のため鎌倉を出発。
11月:西海行を決意し、大物浦から出航。大風にあい難船する。
義経と別れた静が、吉野で捕らわれる。
1186文治2年28歳3月:静と母の磯禅尼、鎌倉に到着する。義経、伊勢大神宮に太刀を奉納する。
1187文治3年29歳2月:伊勢・美濃などの国を経て、奥州に赴く。
1189文治5年31歳閏4月30日:泰衡に急襲され、衣川館で自刃する。弁慶立ち往生。
6月13日:泰衡の使者、義経の首を鎌倉に届ける。
 次に、義経と産鉄族との関わりについて「義経記」などの書物や各種資料などから箇条 書きに掲げると共に、産鉄族に関連すると思われる他の伝説なども一緒に掲げてみました。 これらが、土谷仮説の材料となります。 (a)義経が16歳の時に平泉の藤原氏の元を訪ねる際に「金売吉次」という人物が案内した  という話が伝わっている。また、東北地方に伝わる民話に、金売吉次の父親は「炭焼き  藤太」であるとしている。この吉次は義経が頼朝に追われて、平泉に逃れる際にも同行した  とされる。 (b)後白河上皇が豊後知行国主の藤原頼輔を通して緒方惟栄に命じ、西国に逃れさせよう  としたが、大物浦で暴風雨に遭い失敗。この緒方惟栄が源義経のために建てた城が大分県  豊後竹田市の岡城であるという伝説が残る。 (c)緒方惟栄の名前は「平家物語」の「緒環の段」に登場し、その祖先である大神(おお  が)氏についての話が、大和国大神(おおみわ)神社に関連して語られる。大神神社の  ご神体である三輪山に関して、「三輪山縁起」の異本とされる「三輪叢書」によれば、  緒方氏の先祖である大神比義は三輪君と共に大田々根子(藤原氏の先祖)の子孫として  いる。 (d)大分県三重町は緒方氏の勢力範囲にあったとされる場所だが、ここには「蓮城寺」と  いう寺があり「炭焼き小五郎」伝説が伝わる。その伝説によれば「久我大臣の娘」である  「玉津姫」は大和国大神神社のお告げを受けて豊後に下り小五郎の元に嫁いだ。「義経  記」の中で義経の妻として「久我大臣の娘」が登場する。双方の時代は5〜6世紀  隔たっているので別人だが、同じ名前が登場している。 (e)「玉津姫」の娘は「般若姫」と名づけられ、後に用明天皇となる「山路」という青年  との間に「玉絵姫」をもうける。「般若姫」は京に上る時に船が遭難し、山口県柳井市  付近で亡くなる。山口県平生町には姫の供養のために建てたとされる「般若寺」が残り、  寺には蓮城寺に伝わると同様の話が伝わる。対岸の伊予高浜の大山寺も般若姫の供養の  ために建てられたとされている。 (f)同じく大神氏の子孫とされる賀来氏に伝わる、「賀来(かく)系図」(「賀来八太郎  文書」)によると、元暦元年(1184)3月、源義経が緒方惟栄に命じて、豊前豊後に5城  を築かせた。その一つが芝崎城(豊後高田市)、その二が高森城(宇佐市)、三が犬丸城  (中津市)、四が大畑城、五が塩田城(福岡県築城町)で、大畑城には二郎惟興をして  守らせ、これより大畑を加来と称し、子孫相続いて城主となったという。 (g)藤原氏の先祖の「大田々根子」について、崇神天皇の時、国内に疫病がはやり多くの  人民が死亡した。天皇が八百万の神に卜をもって伺ったところ、倭迹々日百襲姫命の口を  かりて「我は大物主神である、子孫大田々根子をもって祭れ」といわれたという話が  伝わる。そこで、現在の大阪府堺市の陶荒田神社のある場所にあたる、茅淳県(ちぬの  あがた)の陶(すえ)村(現在の堺市)に住んでいた大田々根子が呼び出され、大神  神社の大物主神を祀ることになった。 (h)義経に仕えた武蔵坊弁慶は、和歌山県田辺市付近で生まれたとされるが、島根県出雲  地方にも誕生伝説が多く残る。そうした伝説の一つに、弁慶の父親は紀州出身の熊野別当  湛増、母親は出雲出身で、母親が出雲に帰って弁慶を産む際に、鉄の鍬を10丁食べると  不死不滅の体になるはずが9丁半食べたところで生まれたため、「弁慶の泣きどころ」が  できてしまったという話が伝わる。出雲も紀州も古代の鉄の産地である。 (i)義経に仕え、最終的な逃亡地である平泉まで伴をした鈴木三郎重家は紀州の出であり、  海南市の藤白神社のそばには「鈴木屋敷」がある。鈴木氏は熊野信仰と深く関わる一族  だが、金売吉次の父親「炭焼き藤太」は熱心な熊野信仰者であった。 (j)藤原鎌足について、大和国でなく常陸国で生まれたとする話がある。父親の御食子が  鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間にできた子とされる。  鹿島神宮のある茨城県鹿嶋市は古くから製鉄が行われた土地である。 (k)源義経が逃れた吉野山の吉水神社は、藤原鎌足が葬られている多武峯の談山神社の  南方約15キロほどの場所。桜井市の大神神社から談山神社を経由して吉野山まで約25  キロの道のりで、現在も国道37号線で結ばれている。 (l)桜井市上之庄には殖栗(えぐり)神社があり、「大和・紀伊『寺院神社大事典』」に  よると、上之庄集落南西隅、寺川の右岸に鎮座。もとは同集落北東隅の初瀬川南岸、  上街道のすぐ西、小字江繰にあったと伝える。祭神は殖栗王・天児屋根命。殖栗につい  ては「日本書紀」に殖栗王・殖栗皇子の名がみえ、また「春日社記」に、鹿島(現茨城県  鹿嶋市)の神を大和へ奉遷する際、随行の時風・秀行に殖栗連の姓を賜ったことが記され  ている。 (m)桜井市上之庄は中世において興福寺の荘園であり、興福寺は藤原氏の氏寺で、始祖藤原  鎌足の遺志をついだ夫人の鏡女王(かがみのひめみこ)が山城国山科に創建した山階(やま  しな)寺にはじまるとされる。 (2)産鉄族ネットワークと源義経  さて、これらの材料を使って、説明を試みてみます。  源義経と武蔵坊弁慶に関して、その幼少期や誕生に関して、鉄(あるいは金)に関わる 人たちの話が周りにありました。その一つに、様々に形を変えて伝わる「炭焼き伝説」の 影が特に義経の周りに存在します。そこから、「金売吉次」「緒方惟栄」そして惟栄を 軸に「大神神社」「大神氏」「義経の命による豊前豊後の5つの城」など、平泉、大和、 豊後、とがつながってきます。弁慶の話からは、鉄を通じて、紀伊、出雲、がつながり ます。そして、紀伊を根拠地とする「鈴木三郎家重」「熊野信仰」などもキーワードとして つながってきます。  義経を九州に逃れさせようとし、失敗した後に吉野山に匿い、そして最終的に奥州に 逃れさせた人たちの背後には、その時代から500年以上前には形成されていたであろう 「産鉄族ネットワーク」が存在したに違いないというのが私の仮説です。  奥州平泉の藤原氏はマルコポーロをして「黄金の国ジパング」と言わしめたほどに 「金」で栄えていたと言われています。この金を掘り出す作業にあたった人々は「産鉄族 ネットワーク」に属した人たちでした。そして、その一角に土谷さんの先祖がいたと考えて います。秋田県東成瀬村肴沢、秋田県十文字町には今でも土谷さんの集落が見られますが、 この辺りにはかつて金鉱山があったとされます。平泉から25キロほど北に当たる、岩手県 江刺市田原というところに「弁慶屋敷跡」がありますが、この場所に「土谷」という地名が あり、現在でもバス停の名称として残っています。  豊後の賀来氏系図に記された、義経が建てるように命じた5つの城のうち「芝崎城(豊後 高田市)」は、現在この地に住む土谷さんがもっとも多く集まっている場所です。大分県 三重町に「大神」氏につながるとする系図が伝わる土谷さんがおり、山香の「大神之庄」 から三重に移ったとしています。  般若寺のある山口県熊毛郡平生町の南の上関町は、豊後の土谷さんの先祖が相模から 下るときに立ち寄ったとされます。また、西にある熊毛郡田布施町には土谷さんの集落が あり、般若寺までは車で11キロ弱、15分ほどの距離です。  義経が一時身を隠した吉水神社は、古代において産鉄族と関わっていたと考えられる 藤原氏の勢力が及んでいた地域に非常に近いと考えられます。義経の時代、この地域にも 「産鉄族ネットワーク」の影響が残っていたと考えています。義経記の、妻が「久我大臣 の娘」であるという記述と炭焼き小五郎の妻が「久我大臣の娘」という記述、平家物語の 緒環の段の記述も、これらが室町時代以降に出来上がったとされることを思うと、産鉄族の 影響下で、大神神社の縁起や豊後の蓮城寺、そして緒方氏の先祖とのつながりを「産鉄族 ネットワーク」の視点からつなごうとした意図が読み取れるような気がするのです。  大神神社がある三輪山近くに桜井市上之庄があり、その環濠集落には今でも数十軒の 土谷さんが住み、その環濠内には、茨城県の産鉄族の地である鹿嶋とのつながりが深いと 想像される「殖栗(えぐり)神社」があります。そして、この上之庄は古くは藤原氏の 荘園でした。中臣鎌足は後に藤原姓を名乗りますが、彼は東国鹿嶋の生まれであるとも 伝えられ、その先祖の大田々根子を通して大神神社と深くつながります。大神神社のそば には、金屋という地名や「穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)」という 古代の製鉄に深く関連するとされる神社もあります。  大田々根子が見つかった、堺市の陶荒田神社一帯は、「陶(すえ)村」と呼ばれ古代に おいて須恵器の一大生産地でした。ここで焼かれたと思われる須恵器が上之庄で発掘 された「藤原京」の「京極道路」跡から見つかっているそうですし、大神神社周辺にも そうした須恵器が発見されているそうです。堺市栂もこの古代須恵器生産地の一角にある のですが、この栂地区に今でも数十軒の土谷さん集落があります。そこには桜井神社という 神社があり、大神神社との関係を推測する人もいます。鉄も須恵器も大量の炭を必要と します。互いに密接な関係があったのではないでしょうか。  義経の伴をした鈴木家重に関する鈴木屋敷が残る藤白神社は和歌山海南市にあります。 ここは弁慶の出身地とされる田辺市からは80キロも離れていますので、すぐに結びつけ るわけには行きませんが、私の気持ちの中では関連があると思っています。海南市の椋木や 阪井というところに土谷さんの小さな集中点が見られます。義経の時代の鈴木さんと何かの 関係がなかったでしょうか?  豊後大分市、紀伊和歌山市、常陸鹿嶋市、には今でも新日鉄や住友金属などの製鉄工場が あり、出雲は江戸時代にたたら製鉄がとても盛んな場所でした。こうした場所が「産鉄族 ネットワーク」によって、義経の時代にしっかりと結ばれ、そのネットワークが義経の 逃避行を助けたと言えるのではないかと考えることはできないでしょうか? (3)産鉄族ネットワークとは  私は義経を支えた「産鉄族ネットワーク」の人たちというのは、全国の「炭焼き伝説」や 「平家物語 緒環の段」「義経記」などというフィクションをでっち上げた人たちでは なかっただろうかと考え始めています。15〜16世紀の戦国時代に、各地の戦国大名たちは、 金や銀、そして武器のための鉄をたくさん持とうと競い合いました。甲斐の武田信玄は そうした面で、最も成功した戦国大名の一人でした。この時代に、全国の鉱山で働く人たちに より、古代の「産鉄族ネットワーク」が再構築され、人の移動や情報交換が非常に活発に行わ れたのではなかったかと考えています。そうした人たちによって、仕事が終わった後の酒の席 などで、語り継がれていく中で、自分たちの遠い先祖から伝わる話などを巧妙に織り込み ながら、「炭焼き伝説」「平家物語 緒環の段」「義経記」などが形作られていったのでは なかったかと考えるのです。  武田信玄に仕え、後に徳川家康の下で初代金山奉行を務める大久保長安は、16世紀中ごろに 信玄から「土谷」という姓を与えられたとする記録があります。もしかすると、この時代の 「産鉄族ネットワーク」を通してこの情報が伝わり、ネットワークの中の一部の人たちが 「土谷」をいっせいに名乗るようになったのではなかったかと考えています。秋田県十文字町の 土谷さんの中には、この時期ごろに別の姓から土谷に変わったとする系図が伝わる家があります。 石川県金沢市の「土谷山敬栄寺」はこの時期に建立されました。山口県須佐町の土谷さんも 同時期にその地の殿様であった益田氏から土谷の姓をもらいました。豊後の土谷さんも、ほぼ この時期ごろから歴史に登場すると考えられます。  大久保長安が実際に関係した鉱山は、甲斐の複数の鉱山を始め、石見銀山、佐渡金山、伊豆 金山、などがあります。土谷さんの分布としては、岩見や伊豆の近くにはあるものの、山梨県や 佐渡にはほとんど見られません。しかし、甲斐の武田氏に関係あるとされる群馬県下仁田町に 大きな集落があったり、先祖は昔佐渡に住んでいたとする土谷さんが新潟県や北海道におられ ます。  大久保長安の足跡の一つに、佐渡における能楽があります。佐渡には人口約8万人に対して 33棟(かつては200以上と言われている)の能舞台が今でも残っていて、おそらく能舞台の 分布密度としては日本一高いと言われています。これは、能の大成者・世阿弥が佐渡に流された ことと無縁ではないでしょうが、世阿弥が直接島民に能を教えた形跡はないそうです。佐渡に 能楽を定着させたのは、初代佐渡奉行・大久保長安とされています。猿楽師金春喜然の息子と して生まれた彼は、慶長9年(1604)に二人の能楽師を召し連れて来島しました。他に 囃子方や狂言方までもやって来て、長安の陣屋で能楽を演じました。佐渡に残る最古の演能記録 には、寛永12年(1635)に当時の奉行・伊丹播磨守が相川の春日神社祭礼に能を奉納した とあるそうで、この後佐渡では神事能が定着していきました。現存する能舞台のうち個人所有の 1棟以外はすべて神社に付属しているそうです。この大久保長安と能との関係において、大和の 藤原氏関係の寺や神社とのつながりもかなり強いのではないかと思っています。戦国時代の 甲斐の金山開発は猿楽と深くつながりを持っていたようです。  こうした「産鉄族ネットワーク」を形成していた人たちの遠い先祖は、鹿嶋の鉄につながる 藤原氏だったのでしょう。その証拠に、金の発掘で金持ちになるというモチーフを持つ「炭焼き 伝説」の主人公は、石川県金沢市周辺に伝わる「芋掘り藤五郎」、東北の「炭焼き藤太」などの ように「藤」の字がつく名前が多いのです。  「東国の古代 産鉄族オオ氏の軌跡」(柴田弘武著/崙書房)という書物の中では、常陸国の 産鉄族について論じられ、古代において九州からやってきた人たちがかの地で産鉄族として 勢力を広げていった様子を見事に描いています。そして九州から移った時期を、「磐井の乱 (527)」以降であったと推理しています。そして、その昔、彼らのルーツは朝鮮半島に あったのではとしています。  私は、産鉄族のルーツは朝鮮半島南部の伽耶の人たちだったろうと思っています。その人 たちがある時期に九州に渡り、一部は瀬戸内海を通って河内や大和へ、そして、柴田氏が言う ように海路で常陸に直接行ったグループもあったのだろうと思います。中には、船が暴風に遭って 遭難し、一族にとって高い位の姫君が亡くなることもあったのでしょう。般若姫の伝説はそれを 美しく伝えたものだったかも知れません。そして、そうした人々の中の鉄や金属一般に関わる 人々の間に、なんらかのネットワークが時代を越えて、ずっと続いてきたのではなかったかと 考えるのです。そしてそのネットワークは、彼ら自身と同族であり、「大化の改新」の主役の 一人である「中臣鎌足」を支え、その後、藤原氏を支える勢力として全国の鉱山の多くを支配し、 源義経の時代には彼の逃避行を支える影の力となり、戦国時代の鉱山開発に力を発揮し、彼ら 自身のルーツに関わる話を巧妙にその時代の伝承に織り込んだ。江戸時代直前には、彼らの 多くは地域社会に溶け込み、ほとんどは一般農民として住み着くことになったものの、中世に 鉱山開発に携わった名残からか、住み着いた場所は山間部を開墾した土地が多かった。  さて時代は下り、かつての「産鉄族ネットワーク」は、250年間の徳川幕府の時代に消滅 してしまい、多くの子孫たちも先祖からのエピソードは伝わらないまま、あるいは大きく歪め られた伝承を残すのみとなってしまい、一部の土谷さんは「相模の土屋」の子孫であるとしたり、 平家の落人であるとしたりしました。これらは、それなりに時代を生き抜く智恵であったり、 源頼朝に追われる身であった義経を助けたという話の名残と考えてみたくなるのです。  明治時代初期になって、北海道においてゴールドラッシュが起こりました。そうした北海道の 歴史を背景に、2002年にはアジアで始めての「世界砂金掘り大会」が、北海道浜頓別町で 行われました。  明治初期のゴールドラッシュの時、かつて「産鉄族ネットワーク」を形成していた人々の 子孫の一角を成していた全国の土谷さんのDNAの中に織り込まれていた遠い昔の先祖の 「産鉄族」の血が騒ぎ、多くの土谷さんが金鉱山や砂金を目指して北海道に移住したのでは なかったでしょうか。現在の土谷さんの分布を見ると、都道府県別では北海道がもっとも多く なっています。その次が大分県です。人口比率では、大分、奈良、和歌山、秋田、石川、の次で 第6位です。上位5県が全て、これまでに述べてきたように、金属鉱山開発に深く関連する 土地柄であることを考えると、これはあり得ることではないかと思うのですが、読者の皆さんは いかがでしょうか? ちなみに7位は石川県の隣の福井県、8位は出雲のある島根県、そして、 群馬県、山形県と続きます。  もっとも、明治初期の北海道のゴールドラッシュは長くは続かず、多くの土谷さんはこの地で 漁業や農業に従事することになっていったと考えています。  ということで、今回の土谷さんメール新聞は、かなり飛躍した論理を披露してしましました。 みなさんからのご意見や情報など、お待ちしております。 連絡先:  〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13     電話・FAX:093−617−1774 電子メール :shige@tsuchiya.com        2003.3.2  土谷重幸