土谷さんメール新聞 第14号
2003年10月20日発行
前回の13号を発行してから7ヶ月以上が経ち、これまでで一番長く間が空いてしまい
ました。そうしたこともあって、今回の内容はいつもの2〜3回分の内容となってしまい
ました。いろんな面でかなりの進展があったと自分では思っておりますが、まだまだ調べる
ことが多すぎていつまで経っても終わりのない作業が続きます。それがまた楽しみでも
あるのですが。
(1)甲斐国志
松平定信が幕府の命を受けて完成させた甲斐国志の献進本が国立公文書館に現存して
いると知ったのは3年ほど前のことでした。それ以来、その現物を確かめたいと思って
いたのですが、2003年5月の東京出張の際に遂に現物に対面することができました。
そしてデジタル写真の撮影を依頼し、約1ヵ月後にCD-Rに焼いたものが送られてきました。
右の写真は、その中で「土谷式部丞」という名前が見える部分です。
定信は甲斐国志の編纂を文化3年(1806)に開始、文化11年(1814)に完成し
幕府に献上しました。いまからおよそ200年前の出来事です。公文書館には江戸末期から
明治初期にかけての甲斐国志が全部で6種類保管されており、そのうちの請求番号「173-0103」
が、この献進本であることを確認したのが、佐藤八郎らによる昭和40年代の本格的な校定
本の発刊作業でした。
今回の私の訪問では、お恥ずかしいことに「173-0103」という番号をメモしたものを出張
準備のバタバタで忘れてしまい、記憶の中では「173-0107」と間違っていたため、限られた
時間の中で30分も時間をロスしてしまいました。しかし、この間違いのお陰で明治初期の
写本である「173-0107」でさえ、すでに「土谷」を「土屋」と写し間違っていることを確認
できました。こうしたハプニングもありながら、やっと現物に対面。ゆっくりと味わいながら
読むことは出来なかったのですが、限られた時間の中で200年前に書かれた「土谷」の
2文字をくっきりと読むことができました。そして、これは現物を見ることでわかったことで、
佐藤八郎らの活字版の本では再現されていなかったのですが、その、漢字で書かれた「土谷」
の右側に、カタカナで「ツチヤ」と振り仮名が振られていました。
実は、この史料にこだわったのは、土屋神社というのを説明するための、それほど長くない
文章中の1文の中に「土屋」と「土谷」が書き分けられている史料だからです。個人の家に
伝わる系図などではなく、国内にこの1冊しかない、江戸幕府に献上された由緒ある書物の中に、
このように使い分けられている現物をぜひこの目で確かめたかったというのが一番の理由です。
もっとも、この、土屋神社の棟札の文字については「土屋式部丞」と伝える写しもあることが
甲斐国志の別の個所に記されており、現物が残ってない以上、確証を得ることができないことも
事実です。
(2) 土屋神社
さて、甲斐国志に書かれている「島上条村の八幡神社」も6月末の上京の際にスケジュールに
組み込んで訪ねてきました。大永4年(1524)の棟札の現物は焼失したらしいのですが、
そこに行けば「土谷式部丞」について何かがわかるかも知れないという思いからでした。朝早く
神社に着いて写真撮影をし、そこから徒歩で五輪塔が移設されたという「慈徳院」という寺も
訪ねてきました。
その後、町立図書館は9時にならないと開かないだろうと思ったものの、行けばなんとかなる
かも知れないと言う思いもあり、雨の中、傘を差してゆっくり歩いたのですが、それでも8時
15分には着いてしまいました。そして図書館の開館は10時だということでしたが、お忙しい
中を教育委員会の関係者のかたが親切に対応してくださり、特別に図書館に入れていただき、
その上、お休みを取っていたかたに連絡を取ってくださり、そのかたが私の質問について聞いて
くださり、後日資料のコピーも送ってくださるなど、大変にありがたい対応をしていただきました。
昭和41年に発行された「敷島町史」には、昭和43年以降に順次発行された佐藤八郎らに
よる甲斐国志の決定版の内容は反映されておらず、案の定「土屋式部丞」と引用されています。
しかし、思いがけない情報に出会いました。
島上条の八幡神社の祭神は、本殿に宇佐八幡大神、誉田別命(応神天皇)、玉依姫命、神功
皇后を祀るとなっていて、年代は明らかでないが約1200年前と言われ県内でも古い神社の
一つである、としています。こんなに古い時代に宇佐神宮から直接、勧進されたとなると、
豊後とのつながりもかなり深いものだったのかも知れません。国内に4万社あるという八幡神社の
多くは、鎌倉の鶴岡八幡宮か京都の岩清水八幡宮からの勧進が多いことを考えても、この神社は
特別であるということになりそうです。また、この神社は武田氏の時代、弘治2年(1556)に
土屋右衛門尉が再興したことから「土屋神社」とも呼ばれるようになったとしています。その
祀られている先祖の名前は「土屋昌山大人命」。「昌」の字があることから、土屋昌恒、昌次
などと関係があるのでしょうか。一方「土谷式部丞」の棟札に記された年号、大永4年(1524)
は、この土屋氏による再興の30年前のことですから、この神社は土屋氏による再興以前には
「土谷」による歴史があったのではなかっただろうかと推理してみたくなるのです。
送っていただいた資料の中に「嘉吉3年(1443)」の記載のある棟札の記録が載っていま
した。なのに、その80年ほど後の棟札が残ってないのはとても残念です。
(3)宇佐神宮由緒記
宇佐神宮由緒記によると、清和天皇貞勧元年(859)に山城国男山に「岩清水八幡宮」を
建てたとあります。また、源頼義が鎌倉由比郷に男山を勧請、治承4年に源頼朝が今の地に
移した、とあります。清和天皇の子孫とされる源氏が岩清水八幡以来、八幡神社を大事に祭って
きた歴史を見ることができます。
さて、敷島町の八幡神社、すなわち土屋神社ですが、昭和41年時点で約1200年前に
建てられたとされている言い伝えを信じるならば西暦766年となり、岩清水八幡よりも
約100年前のこととなります。そしてこの年代はメール新聞第6号で紹介した、国東半島の
土谷さんが多く集まる地区にあるいくつかの「山神社」が建てられたとされる時代と同じ時期
ごろに当たります。これらを結びつけるのはかなり無理がありますが、今後出てくるかも知れ
ない情報に期待したいという気持ちがあります。
(4) 栃木の土谷さん
2003年4月末に、栃木県小山市出身の土谷さんからメールをいただきました。その要旨は
以下のようなものです。
a)以前読んだ文献に以下のような内容があったと記憶している。下野の南(現在の栃木県小山市
付近)は鎌倉時代より代々小山一族が幕府より本領安堵されている。小山氏は平将門を征伐
した藤原秀郷(田原の藤太)の末裔と伝えられる。その本によると現在栃木県小山市に住む
土谷家は小山氏の家来の子孫だそうだ。現時点ではっきりしているのは江戸時代は小山市の
大本というところに土着して百姓だったことくらい。江戸時代になって土谷が新たに切り
開いた土地は元々「土谷新田」と言われていたそうだが、今では単に「谷新田」と言われ
ている。
b)栃木の宇都宮の北にある矢板市には「土屋」という地名が残っている。下野の土谷はおそ
らくここと何らかの関係があるのではないだろうか。「屋」と「谷」は音が通じるし、
昔の人は音が通じれば「田原」だろうが「俵」だろうが意識しなかったと考える。藤原
秀郷(田原の藤太)は元々宇都宮北部の田原という地域を本拠地にしていた。現在でも
「田原」という地名が残っており、宇都宮市と藤原町を結ぶ道を田原街道と呼んでいる。
秀郷の家系は将門を討ってから大変繁盛し、下野国の守に任命され、各地に子孫が分散。
宇都宮氏、小山氏、結城氏など、北関東の大名の多くは藤原氏で、矢板市にある「土屋」も
平安時代は藤原秀郷の支配するところ。
c)九州にも豊前宇都宮家があった。これは下野の宇都宮宗家の分岐で、途中で下野宇都宮氏
から養子をもらったりしている。当然、豊前宇都宮氏と宇都宮宗家との間にも人やモノの
往来があったと考えられ、国東の土谷と下野の土谷との関係も色々と考えられそうだ。
****************************************************************
さて、このかたの情報から、私にとっては未確認地域であった「栃木県の土谷さん」に
ついて考える機会があり、また「田原藤太」の調査につながり、若尾五雄氏による「黄金と
百足」、更には「全国の炭焼長者伝説」についての「柳田国男」による「炭焼小五郎が事」を
読む機会につながっていったのでした。そして、13号で紹介しました「土谷仮説」を
更に進めた考えを持つにいたりました。
左は栃木県内の土谷さんの分布です。市町村単位では小山市の19軒がもっとも多く、
矢板市(7)、喜連川町(6)、氏家町(6)、宇都宮市(5)、足利市(5)、などと
続きます。
(5) 藤原藤太
藤原秀郷は近江の国「田原」(田原の現在地については諸説あり)の生まれで、「藤原」家の
長男(太郎)であったことから、田原藤太と呼ばれていたと言われています。また、近江の
国の瀬田というところの唐橋を通ったときに大蛇に出会い、その大蛇の化身の依頼により
三上山(滋賀県野洲郡野洲町三上)の百足を退治し、そのお礼にと龍神からもらった贈り物の
中に「米の尽きることのない俵」があったことから「俵」の字を用いて「俵藤太」とも呼ばれる
ようになったといいます。このことは、同じ読みでも異なる漢字を当てる場合、やはり何かの
意味があってそうするんだと言う意味で「土谷」と「土屋」は、何か意味があって異なって
るんだという思いを持ちました。
若尾氏は「黄金と百足」の中で、「百足」が古い時代の「鉱山開発」に関係していることから、
三上山も鉱山と関係があり、田原藤太の百足退治伝説も鉱山と関係があるに違いないと調査を
始めましたが、神社の宮司も近隣の人たちも三上山に鉱山があったという話は聞いたことが
ないといいます。その後、井上さんというかたに出会って、三上山には鉱物資源があること、
ポケット型の鉱山なので採算に合いにくいこと、今では知ってる人はいないだろうなどと
聞かされたということを書いておられます。
藤原秀郷は天慶3年(940)の平将門の乱に際して、平貞盛とともに将門を討ち、その
功績により従四位下に叙されて下野守に任ぜられました。佐野、足利、小山、結城といった
諸氏、また奥州藤原氏もその血筋を継ぐとされます。現在、栃木県佐野市の唐沢山神社にある
避来矢(ひらいし)の鎧(国指定重要文化財)は藤太が三上山百足退治の際に龍王から贈ら
れた鎧だと伝わっており、同じく贈られた鐘は近江の瀬田の唐橋近くの園城寺(おんじょうじ)に
寄進したとされています。この鐘については、後に武蔵坊弁慶が引き摺ったことがあり「弁慶の
引き摺り鐘」と呼ばれているそうです。百足退治に関しても、近江だけでなく下野に伝わる話
として、日光山と赤城山の大蛇と大百足の戦いについての民話があります。こうして藤太の
生まれ故郷の近江の田原と下野の両方に、鉱山開発に深く関係する百足伝説が伝わるのです。
弁慶が登場したという部分も含めて、産鉄族の色合いの深い話です。
(6) 炭焼き藤太と田原藤太
田原藤太について調べていく中で、炭焼長者伝説の主人公の名前が、東北では「炭焼き藤太」
でほぼ統一されていることについての説明がこれでできると感じました。つまり、三上山の
百足退治の伝説などからも田原藤太が鉱山開発に深く関係している人物であると想定でき、
炭焼藤太の「藤太」は田原藤太の「藤太」を借りてきているのではないかという考えです。
栃木県の土谷さんの先祖が古い時代の鉱山開発に関わった人たちであるなら、足尾銅山という
古い時代からの大きな鉱山があることを思えば納得できます。栃木県の土谷さんの先祖も
やはり「産鉄族ネットワーク」の一員だったに違いないと思います。そして、炭焼き藤太伝説が
伝わっている地域の人たちのほとんどは藤原秀郷(田原藤太)に関連しており、同じ「産鉄族
ネットワーク」を構成していたに違いないのです。そして、奥州藤原氏の平泉に近い秋田県や
岩手県の土谷さんはもちろん、柳田国男が「炭焼小五郎が事」の中で東北地方の炭焼き藤太
伝説を初めて聞いた場所として書いている青森県弘前市、その弘前市の石渡というところに
5〜6軒が集まっている土谷さんについても、やはりつながってくると考えるのです。
栃木県の土谷さんについて調べていく中で、地図を眺めていて面白いことに気がつきました。
それは、豊後の宇佐神宮を襲撃して火を放った緒方惟栄についてです。彼は、源義経を九州に
逃れさせるために神戸の大物浦から船を出し、暴風雨に遭って立ち往生するところを捕らえられ、
源頼朝により、文治2年(1186)11月9日上野国沼田荘に流罪となるのですが、その後の
ことははっきりした記録がなく、いつの間にか豊後に戻っていたらしいのです。この沼田なの
ですが、足尾銅山から見ると西に30数キロの場所です。そして、足尾銅山から東に30数
キロのところが宇都宮市です。つまり位置的にみて、彼が流された沼田はこの地の産鉄族
ネットワークの勢力範囲に非常に近いところにあると考えられるのです。もしかすると、正式
には配流を解かれていない惟栄が、いつの間にか豊後に戻っていたということがあったとすれば、
この地の産鉄族ネットワークの手引きが背後にあったのではなかったかと想像してみたのでした。
(7) 炭焼小五郎が事
柳田国男の「海南小記」に所収されている「炭焼小五郎が事」については、これまでの調査の
中で何度かその存在に行き当たり、いつかは読んでみないといけないなと感じていました。
今回、昭和43年発行の角川文庫版で読むことができました。初版は大正14年の発行のようです。
彼は、炭焼小五郎の話が、宇佐八幡宮に伝わる「鍛冶の翁」伝説と深く関わること、古代から
中世の鉱山開発と八幡信仰が全国に広まることとの関係などについて述べています。
こうした考えは私も大いに同感できる部分です。以下、読んだ内容を参考に私なりに簡単に
まとめてみます。
1) 宇佐神宮を興した人々は鉱山技術に関連した人たちだった。
2) 全国各地に八幡神社が建てられていく中で、特に古代から中世初期にかけては、それぞれの
地域の鉱山開発と深く関連があった。
3) 鉱山開発に携わった人々の間で「炭焼小五郎伝説」が語り継がれ、「藤」の字を持つ主人公に
託して、自らのルーツが藤原氏と直接につながっていたことを示そうとした。
以下、やや長くなりますが、「炭焼小五郎が事」の最後の「十二」の部分の書き出しと終わりの
部分を引用します。
「はてしもない穿鑿は、もうこのくらいでいったん中止せねばならぬ。他日もし幸いに機会が
あったら、宇佐の根源が男性の日の神であり、その最初の王子神が、賀茂大神同系の別雷であり、
次の代の若宮が火の御子であり炭の神であって、いわゆる鍛冶の翁はその神徳の顕露であったと
いうことの、はたして証明し得べきや否やを究めてみようと思う。・・・・・」
「・・・・・『遣老説伝』には与那覇親雲上鄭玖、ある日未明に久米村から、首里の御所に
朝せんとして、浮縄美御嶽の前を過ぎ、一老人の馬に炭二俵を積んでくるに逢うた。老人は強いて
玖をして家に引返さしめ、かつその炭俵を与えて去る。後に侍僮をしてこれを焚かしめようと
するに、どうしても焼けず、よく見れば炭はことごとく黄金であったと言う。信州園原の伏屋
長者が半焼けの炭を神棚に上げて置くと、それがたちまち金に化したというのと、まったく
同日の談であったが、黄金を産せぬ島では、ことにこの不思議は大きかったことと思う。すな
わち干瀬の練り絹をもって取囲んだ蓬莱山にあっても、父が炭焼藤太でなければ、その子は金売
吉次であり得ないという理屈が、はっきりとその世の人の頭にはあった。ただしわれわれは
今が今まで、もうこれを忘れてしまっていたのである。」
(8) 鈴木丸
国東半島の三畑土谷家に伝わる系図に次のような部分があります。
これは、江戸時代終わりか明治時代頃に書き写されたものと思われますが、今回はこの中に
出てくる「鈴木丸」について、少し調べてみました。
今回の記事について、2003年3月に発行された、大分県立歴史博物館の研究紀要の
「当館収蔵土谷家文書目録」(櫻井成明、平川毅)から、文書の説明を引用しながら進めて
いきます。
以下、「通番 標題 年代 形態(丁数) 資料番号」を記載し、内容などを次に記載
しますが、これらは研究紀要からの引用です。写真は私が撮影したものです。
・「15 先祖土谷殿古跡 文久3癸亥年 3月吉日 一紙 C4」
(作成)土谷清治則継 (1863年) 17.6×46.1
(内容)伊予宇和嶋平岡仙木よりの話として相州鈴木谷に土谷殿という郷士がいること、
五輪塔が6、7基あることなどを書上げる
この文書は140年程前に書かれたもので、800年前の「鈴木丸」についての正確な
情報とは言えませんが、この平岡某なる人物が「土谷」と「土屋」を区別して伝えていたと
するならば、非常に意味のある情報であると言えます。
「鈴木丸」がどこにあったかについて、この史料の内容を平塚市土屋にお住まいの関野
さんというかたにお送りしたことがあるのですが、このかたから「土屋一族の墓がある
近くに何軒かの鈴木さんのお宅が集まっている場所がある。この近くをかつて『鈴木丸』と
呼んでいたのではないだろうか」というご意見をいただきました。文中の五輪塔は土屋
一族の墓を指すと考えると非常によく合致するというのです。三郎さんの土地を三郎丸と
呼ぶといった感じで、全国に「○○丸」という地名は多く残っています。この意見は大変に
参考になると思いました。以下、手元で確認できる範囲でもっとも古い住宅地図から探して
みると、相模の土屋氏の祖である土屋三郎宗遠の墓を守るかのような位置に鈴木さんの家が
今でも残っていることが非常に明確にわかります。
この土屋地区の中でこれほど鈴木さんが集まっている場所は他にはないことからも
関野さんの推理が当たってる可能性は高いのではないかと思われます。やはり豊後の
土谷さんは相模の土屋氏から分かれたのでしょうか。
ここで、以下の史料について考えてみました。研究紀要からの引用です。
・「8 〔覚〕 一紙 A.b14」
(内容)以下に細目あり 16.1×155.1
・「−1 源頼朝書状・写 6月18日 A.b14−1」
源頼朝(花押影)→武蔵国刀祢二宮権五良
(内容)二宮家領地上総国8郡・武蔵国24郡のうち刀祢12郡を河津一跡をそえて安堵、
また伊東河津久須見庄を二宮権五郎朝縄に安堵する
・「−2 源頼朝書状・写 6月10日 A.b14−2」
源頼朝(花押影)→二宮権五良
(内容)曽我五郎時宗に下されていた伊東河津久須見庄は二宮権五郎へ安堵する
・「−3 某所坪付・写 8月13日 A.b14−3」
頼直→二宮六郎
(内容)三反田・しのひとり・野田・ふかおさの田地7段の坪付
・「−4 大友義鑑書状・写 大永5年10月10日 A.b14−4」
義鑑→二宮助兵衛 (1525年)
(内容)豆銭1貫600文を毎年馳走・在陣の際鎧5料を供奉・諸役御用次第に馳走の
3件について以後毎年馳走のこと
・「−5 某頼直書状・写 霜月15日 A.b14−5」
頼直→二宮助右衛門尉
(内容)生桑3町を役跡として安堵
*******************************
「二宮」という苗字については、「土谷」との関係について述べている話や史料について、
これまでの私の国東の調査からは何もでてきておりません。しかし、非常に興味深いものが
あると考えています。
相模の土屋氏の祖とされる土屋宗遠の父中村宗平(庄司)には、中村太郎重平、土肥次郎
実平、土屋三郎宗遠、二宮五郎友平、の4人の息子がいたことが知られています。また
桂御前と呼ばれた宗平の娘は岡崎義実の正室で、その息子は後に土屋三郎宗遠の養子となり
土屋次郎義清を名乗ります。この土屋義清については、これまでのメール新聞の中で、北陸の
金沢市の土谷さん、豊後の三重町赤嶺の土谷さんに関連して取り上げてきました。中村一族は、
長男中村太郎重平は本家(現中井町)、次男土肥次郎実平は土肥(現湯川原町)、三男土屋
三郎宗遠は土屋(現平塚市土屋)、四男二宮五郎友平は二宮(現二宮町)にそれぞれ領地を
拡大していきました。この二宮友平の息子の朝忠の妻は曽我物語で知られる曽我兄弟(兄は
曽我十郎祐成(すけなり)、弟は曽我五郎時致(ときむね))の異父姉にあたります。
これらのことから、「A.b14」文書について、今の私の中では大きく二つの考え方が
あります。
・ 二宮や曽我兄弟の名を、源頼朝などから下されたとする書状の中に入れることで、相模の
土屋氏と遠からぬ縁にあることをさりげなく演出しようと偽造された書状
・ これらの写しの元となった書状は本物で、国東の土谷は相模の土屋の直系ではないが
非常に近い筋の流れ。何らかの理由で「つちや」を名乗るが、「土屋」と区別して「土谷」
とした。
先の「鈴木丸」で紹介した住宅地図には近くに3軒の二宮さんがあります。土屋氏の墓へ
の道を守るように鈴木さんがおり、その外側に二宮さんがいる、という配置です。地図の
右下隅の「鍛冶ケ窪」という地名も気になりますし、左下の「大庭」という地名も偶然にも
甲斐国志の記述によれば敷島町の土屋神社の場所が同じく「大庭」です。「A.b14−4」
について、大永5年(1525年)という年は、土屋神社の棟札の翌年であり、このころに
大友氏から豊後に呼ばれ関東を離れたなどという空想も広がります。
(9)その他の土谷家文書より
国東の土谷が相模から来たとしている史料として以下のものがあります。
・「25 送状 天正18庚寅年正月吉日 一紙 C5」
土谷又四郎(花押)→ (1590年) 18.7×79.4
(内容)先祖相模国住人土谷三郎が豊後国小川内へ移住し、その子が長岩屋奥足駄木を
切開いたことに相違ないこと
(備考)巻末に「氏藤原朝臣系図之移相違無之者也」とあり
これらの文書が遅くとも220年ほど前には存在していたことを示すような文書も
伝わっています。
・「39 覚 天明5乙巳年何月
一紙 A.c13」
(1785年) 25.3×38.8
小川内村 土谷平蔵・同名次右衛門・同名常右衛門→三畑村 土谷新三郎・同名和吉
(内容)先祖御筋目御巻物御送り状の本書は「先祖元」として当方が受納したとのこと
・「40 覚 天明7丁未2月吉日 一紙 B9」
三畑村 土谷新三郎・同名和吉 (1787年) 22.5×70.8
→小川内村土谷平蔵・同名助兵衛・同名次右衛門
(内容)土谷氏御巻物御送状・先祖土谷次郎三郎の足駄木移住・長岩屋三畑御分領の
4件について天明7年までの経過年数を示す、そのうち送状の本書は「先祖元」
たる小川内村へ送るとのこと
(備考)C3に同様の文書あり
こうした一連の文書から、国東の土谷さんが、事実はどうであるかは別として、相模の
出身であり、藤原氏の流れであり、源頼朝から土地を安堵されていたこと、などを伝え
ようとしていたことが分かってきます。
以下、もう2種類の文書を紹介しましょう。
・「3 書置之事・写 延暦3年甲子3月10日 切紙 A.a13」
三畑村狸穴修行別当 (784年) 52.2×73.5
→千燈村馬場末綱判官貞信之二男末綱貞政
(内容)修行別当が早良親王の謀反により自身の討死を覚悟し念持仏釈迦尊師1幅を
末綱氏に譲り置く
(備考)A.a13に同様の文書あり
・「4 伝・村上天皇綸旨 天暦3年2月 掛幅装 D4」
左小弁→藤原左衛門尉 (949年) 本紙 25.0×38.1
(内容)源・藤原両家へ奥州出陣を命じる
(備考)年次記載部分に朱印あり、?背に土谷則継修理銘あり、本紙は宿紙を使用、
木箱あり
**********************************
この二つの文書については、私自身は現物も写真も見たことがないのですが、面白いな
と思ったのは、「A.a13」の時代が(2)で書いた土屋神社が創建されたとされる
時期と同時期であり、「D4」の年号は藤原秀郷が天慶3年(940年)2月に平将門の
乱を平定したわずか9年後のことで、奥州藤原氏との関係はどうなんだろうとか、今回
取り上げた栃木県の土谷さん、更には東北地方の土谷さんとのつながりはこんなに古く
からあったのかなぁとか想像をたくましく広げられる話題提供にはなると思ったりして
おります。
この二つの文書は、220年前の「B9」には記載されておらず、この時点で存在
しなかったのか、非常に大切なものなので本家が分家に貸出さなかったため記載され
なかったのかわかりませんが、偽作であれ、どこかから盗んで来たものであれ、豊後の
国東半島の山の中の険しい斜面にへばり付くように作られた小さな集落に伝わって来て
いた、ということだけでも奇跡的なことだと思います。
みなさんからのご意見や情報など、お待ちしております。
連絡先: 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
電話・FAX:093−617−1774
電子メール :shige@tsuchiya.com 2003.10.20 土谷重幸
|