土谷さんメール新聞     第15号
                           2003年12月10日発行
1)	北緯39度土谷ライン
 秋田県本荘市に土谷という地名が残っています。また、岩手県江刺市田原というところ
に土谷というバス停名が残っています。私はこの二つの地を結ぶ東西の線を「北緯39度
土谷ライン」と呼んでいます。本荘市「土谷@」から国道107号線で東に行き、途中で
国道398号線に入って羽後町に向かい、羽後町と十文字町の両方に雄物川をはさんでそ
れぞれに「睦合A」という地名がある地域を通って十文字町を抜け、国道342号線を通
って東成瀬村田子内の「肴沢B」という場所を通ります。さらに国道397号線に入り、
胆沢町「若柳C」を通って、江刺市「田原D」というところに弁慶屋敷跡、そのそばに市
営バスの土谷というバス停があります。そして国道397号線を更に東に15キロほど行
くと「赤金鉱山E」と呼ばれるところがあり、ここはその昔奥州藤原氏の栄華を支えた金
山の最初の発掘地だと言われている場所です。
 以上のそれぞれの地点の緯度経度の数字、および地図上の場所を示してみます。緯度経
度の測定は、国土地理院ホームページの「地形図閲覧システム」を利用しました。
  @本荘市土谷字土屋   北緯39°22′59″ 東経140° 4′29″
  A十文字町睦合字八幡前 北緯39°13′42″ 東経140°27′ 5″
  B東成瀬村田子内字肴沢 北緯39°10′22″ 東経140°40′39″
  C胆沢町若柳字鍛冶屋敷 北緯39° 7′23″ 東経140° 3′56″
  D江刺市田原字御免   北緯39° 9′48″ 東経141°11′43″
  E赤金鉱山       北緯39°10′20″ 東経141°21′13″

 この地図上の下のほうに水平に引いている赤い線が北緯39度の線で、平泉中尊寺の金
堂あたりを通ります。この線と比較してみると@〜Eの場所が東西につながる道沿いによ
く並んでいるのがお分かりと思います。これが、私が名づけた「北緯39度土谷ライン」
です。
 ではこれから@〜E、そしてFについて説明をしていくことにします。

@本荘市土谷字土屋
 元和10年(1624)の「内越郷土谷村検地帳」に359石とあることから、近世
初期に「土谷村」があったことがわかる。その後、元禄11年(1698)の「出羽国
由理郡之内村高帳」では「谷地村106石4斗6升4合、土屋村212石9斗2升8合」
とあり、谷地村と土屋村とに分かれたことが分かる。そして明治8年(1875)に再
び合併し土谷村となった。(「岩手県の地名」(日本歴史地名体系第三巻:平凡社)を
参照。)
 この地域には古い時代の製鉄遺跡があり、内越公民館の郷土史研究グループによるレ
ポートがありますので、その一部を紹介します。
 「『土谷製鉄炉遺跡調査報告書』(昭和63年、本荘市教育委員会)によれば、珠洲
系須恵器の確認から12〜14世紀頃から鉄生産を開始したものであること。須郷から
唐津焼が出土していることから16〜17世紀頃まで鉄生産が行われたもののようだと
推測している。」(「わがふるさとの歴史 第四集」p.16 渡辺金重:筆(本荘市南内
越郷土史研究サークル))
 「平泉の藤原氏は製鉄技術にたけた一族であったらしい。多くの仏像や鉄器を残して
いる。由利・内越(うてつ)氏がこの藤原氏とつながりをもっていたと察せられるので、
その援助により技術者を得て製鉄を行うことは容易であったろう。
 白山族は産鉄族と呼ばれ製鉄に従事した一族(集団)である。近くに白山神社(加賀
の国より)が祭られているが、炉との関係はさだかでない。」(「わがふるさとの歴史 
第三集」p.63 渡辺金重:筆(本荘市南内越郷土史研究サークル))
  なお、この地域には土谷さんあるいは土屋さんは現在一軒も見当たりません。過去に
おられたかどうかも分からないそうです。須郷(すごう)という地名は菅生(すごう、
すがお)に通じ、鉄に関係した地名と思われます。



 A十文字町睦合字八幡前
 この睦合の土谷さん集落は、現在でも多くの土谷さんが集まっている場所の一つです。
ある程度の平地にそれなりの規模で集まっている地域は、他には、奈良県桜井市上之庄
(殖栗神社)、大阪府堺市栂(櫻井神社)、大分県豊後高田市玉津(若宮神社)、大分
県大野郡三重町菅生(菅生八幡神社)の4ヶ所しかありません。
 桜井市の殖栗神社以外は八幡神社に関係する地域であり、特に堺市の櫻井神社は「推
古天皇五年(597)八幡宮を合祀、上神谷(にわだに)八幡宮とも称し、応神天皇・
仲哀天皇・神功皇后を奉斎している。」(櫻井神社由緒略記)とあり、6世紀末に八幡
宮を合祀するというのは驚くほどの早い時期です。
 中野幡能氏による「八幡信仰」(はなわ新書)によれば、
 「八幡神の発生についての最も古い史料は、弘仁12年8月の官符に引用された弘仁
6年(815)の大神清麻呂解状である。・・・<原文引用>・・・八幡神は、『大菩
薩』と書かれ、太上天皇(応神天皇)の御霊として欽明天皇の御世、馬城嶺(まきのみ
ね)に『現坐也』とある。」
 「大神清麻呂の文書では欽明29年(568)の発現から養老4年(720)の隼人
征伐の託宣まで152年間も空白である。しかし辛嶋氏の伝と思しき伝承では欽明天皇
の御代に宇佐郡の『辛嶋字高島』に天下ったとして『馬城嶺』とはいっていない。これ
から大和国膽吹嶺(いぶきのみね)に移り、紀州から瀬戸内海を通って馬城嶺に現われ、
『比志形荒城潮辺(ひしがたあらきうしおのほとり)』に移り、酒井泉社、鷹居社とな
る。奇瑞のあった鷹居社については崇峻3年(590)より5年(592)迄辛嶋勝乙
目(からしますぐりおとめ)が祈って宮柱を立てたとし、・・・・」
 などとあります。大神氏の記録によれば、6世紀末に大和から宇佐に大神氏が入って
きたとなり、
 「辛嶋氏伝をとるとすれば、大御神(大菩薩ともなっている)は大和国膽吹嶺から紀
伊・吉備を通って、宇佐浜に上陸し「駅館(やくかん)」の地に鷹居郡社を造ったとい
う。」
 「・・・経路を、八幡神は大和の膽吹嶺から紀伊名草海島、吉備神島、宇佐馬城嶺よ
り、比志形荒城潮辺に着く、・・・」となります。
 堺市の櫻井神社の「推古天皇五年(597)八幡宮を合祀」という年は、桜井市の大
神(おおみわ)神社と関係があるともされる大神比義が大和国から宇佐に入ったにして
も、辛島氏伝のように宇佐から大和に移った八幡神がその後、紀伊・吉備を通って宇佐
に入ったとしても、こうした時代と重なるのです。土谷さん集落が残るこれらの地域が
古代の八幡信仰をキーに結びつきそうなことに興味を覚えます。
  睦合の土谷さん集落の特徴は「土谷」さんだけでなく「土屋」さんも多いということ
です。これは石川県金沢市が似たような状況にあったと思われますが、金沢市の場合、
現在では土谷さんと土屋さんが市内に点在し、以前はどこに集まっていたかが分からな
い状態で分布しています。

   睦合の土谷さんは、地図で見る限り「八幡神社」を中心に集落が形成されている
ように思われ、この八幡神社の創建の時期や由来を調べることで何か分かってくるかも
知れないという思いがあります。(図中の赤点は「土谷」、青点は「土屋」)

 B東成瀬村田子内字肴沢(図中の赤点は「土谷」、青点は「佐々木」)

 この地域の特徴は、両側を山に挟まれた谷底を流れる細い川沿いに棚田などを作って
集落ができていること、それから近くに鉱山跡があるということです。「菅生田」とい
う地名もあります。田子内鉱山については「成瀬川の中流左岸、肴沢の南の標高300
〜400メートルの丘陵地帯にある。鉱床は1〜3キロに及び、元山・前山を中心に金
銀などを産した。
 『梅津政景日記』慶長19年(1614)正月10日の条に『増田銀山』とみえ、運
上銀は元和4年(1618)200匁、寛永3年(1626)320匁であった。・・・・
各鉱山ごとに山神社、鉱山への入口には八坂神社が建立された。」(「秋田県の地名」
(日本歴史地名体系:平凡社)を参照。)という解説があります。似たような地形の場
所の土谷さん集落の例としては、群馬県甘楽郡下仁田町青倉、大分県西国東郡真玉町三
畑などがあり、大分県西国東郡の真玉町と香々地町には、三畑以外にも、西畑、大岩屋、
山畑、黒土、有寺、小畑、など合わせて10ヶ所ほどの同様の形態の土谷さん集落があ
ります。全国の土谷さんの分布で、集落と呼べるほどに集まっているところは、例外な
くこれらAかBのパターンに分類されると言っていいと思います。
  この肴沢の場合、土谷さんと佐々木さんの家がほぼ同数あり、古い時代にこれら二つ
の家がどのような関係であったかなど興味あるところです。一つの考えとして、義経の
家来の亀井六郎重清は佐々木家の出であるという説があるそうですが、亀井六郎の子孫
が「亀井」という名字を隠すため「佐々木」を名乗り、鈴木三郎重家の子孫の一部が「鈴
木」を隠すため「土谷」を名乗った、というのはどうでしょう?

 C胆沢町若柳字鍛冶屋敷
  ここは、はっきりした土谷さん集落があるわけではないのですが、「若柳」に数軒の
土谷さんがおられ、この地に「鍛冶屋敷」という地名が残っていること、「土谷ライン」
上に重なることから取り上げました。古い時代にはもっと大きな土谷さん集落があった
のではなかったかと考えている場所です。

 D江刺市田原字御免
  寛永19年(1642)の土谷村検地帳(県立図書館蔵)があることから、近世初期
には土谷村の存在が確認できますが、現在ではバス停の名称として残るばかりです。御
免、川窪、野、樋の口の四つの小名があったそうです。ここに鉱山関係の施設などの跡
があったという情報は持っておりませんが、「樋の口(といのくち)」という地名は金
属の精錬作業と関係のある地名かも知れません。
 この地一帯を「田原」と呼ぶこと、土谷バス停近くに「弁慶屋敷跡」と呼ばれるとこ
ろがあることなど、奥州藤原氏の先祖ともされる「田原藤太(藤原秀郷)」との関係も
含めて興味深い場所です。義経の北行伝説において、一行は、この地で白粟5升を求め、
炊かせて、空腹を満たし、近くの五十瀬神社に旅の安全を祈願した、と伝えられる場所
でもあります。ここには「弁慶洗足の池」というのが残っているとか、ここから5キロ
ほどのところにある「多聞寺」には義経の家来の鈴木三郎重家がお礼として置いていっ
た「笈」が明治5年の火災で焼失するまで残っていたなど、この近辺にはいくつかの義
経一行の足跡が伝えられています。
  本荘市土谷と同様に現在この地域に土谷さんあるいは土屋さんの家はありません。

 E赤金鉱山
  「今から約950年前に砂金が発見されて以来、平泉黄金文化に大きく貢献したとさ
れる『赤金鉱山』。伊手・米里両地区に存在したいくつもの鉱山を総称してこう呼ばれて
います。徳川時代には南部藩による経営、江戸末期には溶鉱炉による製鉄が始まり、明
治19(1886)年から金銀銅も採掘、26年には銑鉄も生産されるようになりまし
た。採鉱坑道は延べ約50km、深さは330mに達します。
 ピークの昭和31年には、社員など約1,000人が働き、社宅132戸、独身寮8
棟、保育所、大食堂、大浴場、テニスコート、病院、映画館など多くの福利厚生施設が
整っていました。しかし、鉄鋼の輸入自由化の影響を受け、53年に鉱石の採掘が中止
されました。」(広報えさし2003.8月号より引用)
と、このように「北緯39度土谷ライン」には、土谷という地名、実際の土谷さん集落が
残る場所、鉄や金などの鉱山に関係する場所、義経伝説に深く関わる場所、奥州藤原氏と
関係する場所、などが東西に並んでいるのです。つまり「土谷仮説」の材料の全てがこの
ライン上に並んでいるという、私の土谷研究にとっては特別の場所なのです。別の視点か
ら、このラインはそのまま何らかの鉱物資源の「鉱脈」なのかも知れないという思いもあ
ります。

 F鈴木家住宅(国指定重要文化財)
 ところで地図上のFですが、ここには17世紀に建てられたとされ、秋田県で最も古い
木造居宅であり、国の重要文化財に指定されている「鈴木家住宅」があります。羽後町飯
沢字下先達というところです。ここの鈴木さんの言い伝えによれば、ご先祖は衣川の合戦
で戦った鈴木三郎重家で、子孫は逃れてこの地に住み着いたとされるそうです。この重家
は義経とは幼い頃からの付合いがあり、平家との戦においても家来として多くの功績を残
した人物です。鈴木家には800年に渡る記録が残されていて『羽後町郷土史』の資料と
して使われたということです。この郷土史はぜひ入手したいと思います。
 重家は、弟の亀井六郎重清と共に平泉に向かう義経の供をするはずでしたが、紀伊にい
る病気の母親のそばにしばらくおり、その後奥州に向けて行く途中、源頼朝の家来に捕ま
り頼朝の前に出されますが、以前の忠義を認められ義経についたのは一時的なことと赦さ
れ土地を安堵されたといいます。義経記には重家が甲斐に土地を安堵されていたことが書
かれており、編者の注には甲斐に熊野神社が多いことがこれを裏付けるか、と書いていま
す。
 そうやって頼朝に土地を安堵された重家ですが、結局は奥州平泉の義経に合流します。
この重家が安堵された土地については甲斐でなく紀伊であるとする写本もあり、また神戸
の鈴木さんにお聞きした話では相模という話もあるそうです。
 第14号でお伝えした、三畑土谷家系図に記載された「鈴木丸」あるいは「鈴木谷」と
いう場所が、この重家が安堵された土地であるなら非常に面白いことになるのですが。そ
して、秋田における重家の子孫の家の場所が十文字町の土谷さん集落に近いところである
ことなどを考えると「土谷ライン」は衣川で敗れた義経軍の残党が逃げ延びた経路を示し
ているとも言えるのではないだろうか、その残党の中には秋田県の土谷さんの先祖もいた
のではなかっただろうかという考えにもつながっていくのです。
 石川県鳥越村に本拠を構えた鈴木氏のご先祖は鈴木三郎重家であるとされますが、金沢
市にあって鈴木さんの子孫と土谷さんの子孫とが互いに養子縁組をするなどの仲にあった
こと、相模における重家が安堵された土地に関連して、もしかすると豊後の土谷さんの先
祖とつながりがあったかも知れないこと、北緯39度土谷ライン上での鈴木さんと土谷さ
んの関係があったのかなかったのか、義経が西国に逃れようとした際に豊後の緒方惟栄に
手引きさせた際に義経と豊後の土谷さんの先祖との接点はなかったのか、などなど。決定
的な証拠が何一つ出てこない中、もやもやとした断片的な状況証拠の積み上げから何かが
見えてこないかとジタバタもがいている自分がいるのです。
 今回は秋田県と岩手県についてまとめてみました。全国で「土谷」という地名は15ヶ
所ほどしか確認できず、そのうち、かつて「土谷村」と呼ばれていたことを確認できるの
は秋田県本庄市と岩手県江刺市と長野県北安曇郡の3ヵ所だけです。そのうちの2ヶ所を
結ぶ「北緯39度土谷ライン」の話、いかがだったでしょうか?これまでのメール新聞で
取り上げてきた、源義経、産鉄族、藤原氏、八幡神社、などのキーワードが集中している
このライン。「土谷」という名字の起源、鉱山開発との関係、藤原氏との関係、鈴木氏と
の関係、八幡信仰との関係、他の地域の土谷さんとの関係、などについての手がかりとな
るような史料が眠っているかも知れないと言う思いもあります。もっといろいろなことが
見つかりそうな予感がしています。
 私自身は今回の@〜Fのどの場所にも実際に訪れたことがなく、図書館、インターネッ
ト、電話、資料取寄せ、などの方法のみでの取材でしたので、現場に行かなければ見えな
いものがたくさん漏れていることと思います。現地に行けば考えが強められるのか、逆に
考えが行き過ぎていたことを思い知らされるだけなのか。一度じっくり訪れてみたい場所
です。

連絡先: 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
     電話・FAX:093−617−1774
     電子メール :shige@tsuchiya.com       2003.12.10  土谷重幸