土谷さんメール新聞     第16号
                           2004年6月20日発行
1)土谷里
 今年の1月に高校時代の友人と食事をしながら話をする機会があった。土谷のルーツを
調べていること、証拠はないけど、遠い先祖は朝鮮半島にあった伽耶の国から来たのでは
なかったかと考え始めている、などと伝えると、彼が豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に朝鮮側に
付き、かの地で生涯を終え子孫を残した「沙也可」についての話を始めた。聞いたことの
ない話ではなかったが、「友鹿洞(ウロクドン)」というところに今でも沙也可の子孫が
住んでいること、今度その場所の地図などを送ると言ってくれた。その後彼から、日本で
は入手しにくい韓国国立地理院の2万5千分の1、5万分の1などの地図と、沙也可につ
いて書いてある箇所のある、司馬遼太郎「韓のくに紀行」が送られてきた。
 大邱(テグ)市の近くにあるその場所は現在は「友鹿里(ウロクリ)」という地名にな
っているが、地図の上でその場所を確かめながら、あることに気が付いた。その地図上に
「○○面」「○○里」などという地名がたくさん記されている中に、「七谷里」「大谷里」
など、「○谷里」という地名がいくつか目に留まったのである。私の頭の中で、長崎県福
島町の「土谷免」という地名がよぎった。もしかしたら「土谷里」や「土谷面」という地
名もあるのではないか、そう思うとさっそくネットで検索を始めた。そしてその結果、2
ヶ所の「土谷里」を韓国内に見つけることができた。
 その2ヶ所とも慶尚南道の範囲にあったので、慶尚南道の公式ページの日本語掲示板に
質問を書いてみた。以下、その質問と回答。
 《質問》
 変な質問ですみません。私は福岡県北九州市に住んでいて、「土谷」という名字のル
ーツを探しています。これまでの日本全国の調査を通して、私たちの遠い先祖は、慶尚
南道のどこかから来たのではなかっただろうかと考えるようになりました。そうした中
で「土谷里」という地名が慶尚南道の中に2ヶ所あることがわかり、大変に興味を持ち
始めました。
  質問です。
 1)「土谷里」という地名は韓国語でどのように発音しますか?
2)「宜寧郡宮柳面土谷里」および「晋州市水谷面土谷里」は、どのようなところでし
ょうか?過去に鉱山開発などがあったような場所がありますか?
3)韓国内で他に「土谷」を含む地名があるでしょうか?もしあるならその全てを教え
ていただけませんか? 
 《回答》
  ご質問について 
  土谷里は韓國語で ‘Togok-ri'と發音します。 
  慶尚南道内に土谷里という地名は(宜寧郡 宮柳面土谷里)一カ所だけです。
晋州市 水谷面 土谷里は土谷里ではなく士谷理です。(土(ど)と士(し)の違いで
すね)
 ・宜寧郡 宮柳面 土谷里
 宮柳面役場の所在地で、1914年以前は宜寧郡一柳谷面だったのが1914年實施した行
政區域の改編により、現在の名稱になりました。
  金海 金氏、密陽 宋氏、海州 呉氏が主に居住しており、屏風の産地でも有名です。
鑛山開發はない地域です。
   韓国内で他に「土谷」を含む地名は 慶尚北道 英陽郡杞面 土谷里があります。

 丁寧な回答に感謝するとともに、これを元にもう少し調べることにした。私の会社に韓
国で地図を作っている友人を持つ社員がいることがわかり大阪の彼に相談したところ、偶
然にも韓国の友人が今年の3月に新しい地図を作ったのでと1冊持ってきたばかりだとい
う。早速彼にお願いして1ヵ月間その地図をお借りした。1月に友人から送られてきた国
立地理院の地図と違って、漢字表記が少なく、ほとんどの地名がハングルで表記されてい
たので、けっこう手こずったが、なんとかその2ヶ所を見つけることができた。以下の地
図にその場所を示している。

 伽耶が最も大きな勢力を持っていたとされる6世紀初頭ごろの百済、新羅、高句麗、伽
耶についてのおおよその勢力範囲も地図の上に描いてみた。こうしてみると、屏風の産地
として知られるという「土谷里」は伽耶の領域の中に入っている。もう一つの「土谷里」
は新羅の領域である。この「宜寧郡(ウリョングン)宮柳面(クンニュウミョン)土谷里
(トゴクリ)」には「金海金氏」が多いと回答にあるが、この「金海金氏」は「金官伽耶」
の人たちの子孫とされる一族である。日本の土谷さんが韓国のこの地名と関係があるとい
う証拠は全くないし、先祖が朝鮮半島から渡ってきたという話も伝わってない中で、今は
単なる偶然としか言えないのであるが、一度は調査に行ってみたいと考えている。

2)「亀」にまつわる話
 ここ20年ぐらいだろうか、古代韓国のさまざまな出土品が発掘され、謎のベールに包
まれていた伽耶という国についてもいろいろと分かってきているという。日本書紀などで
任那と呼ばれた国と深く関係がある国である。国とは言ってもいくつかの小国の連合国家
のようなものだったという説明がなされることが多い。そうしたことの真偽も含めていろ
いろと論議されてくるようになったのである。伽耶と九州王国について書かれた本なども
いろいろと出ている。
 伽耶の歴史については、1076年に当時の知金(金海)州事であった金良鎰によって
編纂された「駕洛国記」という記録があったが、現在は「三国遺事」にその抄録が引用さ
れ伝わっているものしか残っていない。この「駕洛国記」の中に、「亀旨峯」というとこ
ろに声がして「わたしは天の命によってこの地に国を造り、その王となるため天降ってき
た」と言い、金の卵が6個降りてきて、その卵が6人の童子になって、伽耶の6ヶ国のそ
れぞれの王になったという話が載っている。
 この「亀旨峰(クジホウ)」という名称を読んで、数年前に訪問した大阪府堺市の櫻井
神社の話しを思い出した。そこには以下のような話が伝わるのである。
 「社伝によれば推古天皇の五年八月八日、神、此の地に示現し給ひしかば郷民喜びて神
祠を建て直ちに之を祀る、時に亀乙と称する老翁あり、忽然現れて三柱の神像を刻み、刻
み終って又忽然その形を失せりと、其の跡に土を封したりと伝ふるもの即今境外の林中に
ある亀塚にして、・・・」(大阪府誌より引用)
「亀乙」という老人、そしてそこを「亀塚」と呼んだことなど、「亀旨峰」が神を祀る神
聖な場所であることや、亀の文字が示すとされる「クッ」という祭祀習慣(尹錫暁著、兼
川晋訳「伽耶国と倭地」に記載)のことなどが私の中でつながってきた。メール新聞11
号でこの櫻井神社と堺市栂の土谷さんについて書いたが、櫻井神社は推古五年(597年)
に八幡神社が合祀されたところである。その前まではこの地の豪族であった櫻井氏の氏神
を祭っていたとされる。また、この年は、メール新聞15号で紹介したように「八幡信仰」
(中野幡能著:はなわ新書)によると、宇佐神宮に関する大神氏の記録が空白である期間
(568−720)にあたり、「辛嶋氏伝をとるとすれば、大御神(大菩薩ともなってい
る)は大和国膽吹嶺から紀伊・吉備を通って、宇佐浜に上陸し「駅館(やくかん)」の地に
鷹居郡社を造ったという。」「・・・経路を、八幡神は大和の膽吹嶺から紀伊名草海島、吉
備神島、宇佐馬城嶺より、比志形荒城潮辺に着く、・・・」ということになる。奈良県桜井
市の大神(おおみわ)神社と関係のある大神氏が、この櫻井神社(上神谷[にわだに]八幡
宮ともいう)の八幡神社の合祀に関係し、その後宇佐に戻って来たのではないかなどと想
像できないだろうか。
「宇佐神宮由緒記」の「宇佐神宮の歴史」の中に「神亀二年(725)に、現今の社地、
亀山(菱形山とも小椋山ともいう)に移されて一之御殿八幡大神が鎮座されたのが、宇佐
神宮の創立である。」とあり、ここでも「亀山」というように「亀」が出てくる。時期的に
は大神氏記録の沈黙が終わった直後である。
 亀と言えばもう一つ。昨年11月に豊後高田市の土谷さんについての調査に行った。そ
こで江戸時代初期からの豪商の一つ「生田屋」の土谷さんについて少しだけ調べたのだが、

右の写真で分かるように、「上生田屋」の墓石の紋はこの地の土谷さんの梅鉢紋の周りを「亀
甲」で囲んでいる。ここにも「亀」がいたと喜んだが、さすがにここまでつなげるのはち
ょっと乱暴すぎるだろう。ちなみにこの地の「上生田屋」と「中生田屋」は土谷さんで、「下
生田屋」については土谷家から嫁をもらった佐々木家が継いだ。「下生田屋」の家紋は「亀
甲に四つ目結紋」だそうで、生田屋としての共通の印が「亀甲」で、その中に家の紋を入
れたものを使ってるようだ。

3)猪群山、飯牟礼神社
 豊後の国東半島の猪群山には巨石群があって、古い時代から神聖な場所として祭祀行事
が行われていたそうである。先月、ここに行ってきた。

 昭和初期まで女人禁制の地だったそうで、その聖域を「オミセン」と呼び伝えられてい
るという。昭和58年、当時東京にいた町出身の有力者の一人が、作家の松本清張を通じ
て、考古学の大家であった元東大教授の斉藤忠先生に調査を依頼し実現した。その報告書
にこんな一文がある。「猪群山に、何等かの形態で、大陸的な文化の要素が含まれている
のでないかということは、国東半島に、古代から、朝鮮半島の人々の渡来居住の多かった
こと、及びイノムレという名称が猪の群の多かったことにもとづくものでなく、或いは、
古代朝鮮語で解釈されないかという点からも考慮の余地があろう。すなわち、ムレという
言葉は、古代朝鮮語のMori(山)と考えられないだろうか。・・・・・・・ 
 猪群山のムレが、古代朝鮮語で解釈されるとすれば、その周辺に、半島系の人々の居住
したことも考えられる。そして、彼等により、祭天の神事が行われ、雨乞いの行事に発展
したということも、一つの考えなのである。」「猪群山巨石群の研究」(斉藤 忠著)
 以下、この周辺の地図を示してみる。 地図上の赤い線は、ハンディGPSでたどった
跡である。

 猪群山の中腹近くには飯牟礼神社があり、言い伝えでは仁賢天皇の時代(488-498)に開か
れたとか。祭神は「彦火々出見命」。古事記や日本書紀に登場する、海幸彦・山幸彦の「山
幸彦」がこの猪群山に登ったという伝説がある。この神社は「山畑」と「小畑」の地域の
人たちの氏神様として祀られてきたという。地図上には山畑という地名はないが、横山か
ら小河内と書いてあるあたりまでが「山畑」と呼ばれている。この小河内、上小畑、下小
畑、そして、臼野と書いてあるところの西のほうにある西畑には今でも土谷さんの家が多
い。
 地図の右上に、私と同じ歳で同姓同名の又従兄弟の家があり、近くに江戸時代からの墓
地がある。墓地には18世紀の年号が彫られたものもあり、今後時間を見つけて詳しく調
査したい。次ページの写真の墓石には「施主 土谷藤八」と彫られ、この「土」の字には
点が付いている。山畑を始めこの地域付近の土谷さんには点のある「土」を使うところと
そうでないところがある。私の先祖の地、小畑では点が付いていたようだ。

 この墓地から猪群山山頂までの直線距離が2.2kmほどである。墓地と小河内の中間
の尾根に稲荷社があるが、私が中学2年のときに初めてこの地を訪れたとき、最初にこの
稲荷社に連れて行かれた。私の先祖も大切にしてきた稲荷なのだろう。いつの建立かは分
からないがかなり古いものだとされていて、「大漁祈願、商売繁昌、家内安全、紛失物再
現祈願に霊験あらたかな神として近郷は勿論、遠く長洲、姫島等から船での参詣者が多か
った。」(香々地町誌)
 長洲は宇佐神宮の北4キロほどの海岸付近の地名で宇佐神宮のそばを流れる駅館川の河
口のところ、姫島というのは国東半島の東に位置する島。姫島村のホームページにその名
前の由来が次のように紹介されている。「古事記によると伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱
の神が「国生み」にさいし、大島を生み、次に女島を生むとある。この女島が姫島で、ま
たの名を「天一根」という。また、日本書記によると、垂仁天皇の御代、意富加羅国(今
の韓国南部)の王子都怒我阿羅斯等が、ある日黄牛に田器を負わせて田舎に行くと、牛が
いなくなった。捜していると老翁が現わて、「おまえの捜している牛は郡公が殺して食っ
た。」という。阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
阿羅斯等は白石を持ち帰り寝室に置くと、美女となった。阿羅斯等は大変喜んで求婚する
と、美女は忽ち消えてしまった。阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至
り、比売語曽の神となった。姫島の名前の由来はここからはじまる。」
 比売語曽神社は漢字の表記が異なるものもあるがここ以外にも大阪府東成区、岡山県総
社市福谷などにもあるようで、それらのつながりを調べていくと朝鮮半島とのつながりも
含めて何か見つかりそうだ。

4)送状
 最後に、メール新聞14号で紹介した国東半島の三畑土谷家に伝わる「送状」について、
記してみる。私には読めない文字もあるので「真玉町誌」に掲載されている読み下し文を
引用してみる。

     送 状
  先祖相模国之住人土谷三郎
  有故而本国を立出上之関義
  居住妹高田浦江船着権現に
  落付我等小畑村に三日三夜
  逗留仕小河内江羆越其儘居住
  仕其後子供五人を分け男子は
  長岩屋奥足駄木と申所を見
  立切開き有附申候女子は波石と
  申所に遣わし申候右之移文相
  違成事無御座候仍而如件
    天文拾八庚寅年
    正月吉日 土谷又四郎

「先祖相模国之住人土谷三郎」
 先祖は相模の住人で土谷三郎であると言っている。この人物がいつの時代の人かについ
ては、はっきりしない。系図では「土谷小太郎久継」(源頼朝の時代の人だとしている)
の息子だとするが、一方で真玉町小河内にある永正13年(1516)の年号の入った宝
篋印塔がこの人物の墓であるとも伝えている。三郎という名前からして、長男と次男は相
模に残ったのだろうか。大岩屋土谷家に伝わる話では、「土谷小太郎久継」の長男は関東
へ、次男は関西へ移り住んだとしている。
「有故而本国を立出上之関義居住」
 何らかの理由があって相模を発ち上関に住んだと読める。上関の近くの田布施町の大波
野(おおはの)の天王原(てんのうばら)というところには現在も数軒の土谷さんがいる
が関係があるだろうか?大波野には八和田(やわた)というところがあり、八幡八幡神社
(やわたはちまんじんじゃ)がある。また、天王原の土谷さんの家のすぐそばには天王原
古墳や納蔵原古墳がある。さらに2kmほど西に石城山(いわきさん)があり、そこには
全長2.6kmほどの神護石が残っていて、7世紀ごろに作られた朝鮮式山城ではないか
とされている。
「妹高田浦江船着権現に落付」
 妹が、高田の港についてそこに落ち着いたという意味だろうか。現在、豊後高田市には
市町村単位では最も多くの土谷さんが住んでいる。その先祖?
「我等小畑村に三日三夜逗留仕」
 小畑村に3日間泊まった、と読める。山畑には12世紀初頭にこの地に来たとする系図
を持つ土谷さんがおられ、小畑村にもすでに他の土谷さんが住んでいたと考えられる。も
しかすると相模の土谷三郎さん一行は3〜4百年前に住み着いていた親戚を訪ねて小畑村
に寄ったとも考えられる。
 右の写真は、山畑の近くの赤松というところにある玉泉寺の過去帳から取ったものです。
1790年に小畠村の庄屋土谷喜平次
が書いたもの。彼の300年ほど前のご先祖が三郎一行をもてなしたか?

「小河内江羆越其儘居住仕」
 この小河内は先に描いた地図のところとは違い、そこから南東に3kmばかり離れたと
ころの小河内村だと考えられます。ここには土谷三郎持継の墓とされる、永正13年(1
516)の年号の入った宝篋印塔がある。
「其後子供五人を分け男子は長岩屋奥足駄木と申所を見立切開き有附申候」
 この足駄木というところが今の三畑で、ここの庄屋をしていた家にこの文書を始め多く
の土谷関連文書が伝わってきた。
「女子は波石と申所に遣わし申候」
 三畑から南西に3kmほどのところにあり、現在は並石(なめし)という地名。

「天文拾八庚寅年 正月吉日 土谷又四郎」
 1549年。系図には土谷三郎持継(1516没?)の弟に土谷又四郎吉継という人物
がいるとなってるのでこの人物ではないかと思われる。

 
 姫島に渡るフェリー乗り場のある「伊美」という港に「伊美別八幡神社」があり、「伝
承によると今から千百十余年の昔、仁和二年八月、豊後伊美郷の人々が山城国石清水八幡
宮より分霊を奉持して海路下向中、嵐に会い祝島三浦湾に漂着した。当時この地には三軒
の民家があったが、生まれる子供は体が弱く生活は苦しかったが、彼らは一行を心からも
てなした。その時に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を始めたことにより、以後島民の
生活は大きく向上。それからそのお礼にと、島民は毎年八月に伊美別宮社に「種戻し」に
欠かさず参拝をした。そして4年毎に伊美別宮社から二十余名の神職、里楽師を迎え、本
島を斎場として神恩感謝の合同祭事を行うようになった。これが神舞神事の起源である。」
 現在でも4〜5年ごとに豊後から船で祝島に渡り、数日間にわたる神舞の行事が行われ
ているそうで、これほど昔から続いているというのは奇跡的なことだと言える。「土谷三
郎」一行が16世紀初頭ごろにここを船で通るよりも7百年近くも前からこの二つの地域
の人々の深い交流があったわけで、この二つの地の土谷さんの先祖も古くからの交流があ
ったと想像することはそれほど無理なことではないと思う。田布施町天王原の土谷さんも、
土谷三郎よりずっと古くから住み着いていて、上関で別れたかも知れない一行は天王原の
土谷さんを頼って行ったのかも知れない。この地の土谷さんは明治時代初期にはもっと多
かったらしく、そのうちの何軒かの土谷さんが北海道に移住したという話も伝わっている。

 今回は、この海域を舞台に繰り広げられる「般若姫伝説」について触れることができな
かったが、平生町にある般若寺と大分県三重町の蓮城寺に伝わる伝説、そして三重町の土
谷さんについて、次回に書いてみようと思う。
 三重町誌によると「県内に多い八幡社・伊勢社・金毘羅社はそれぞれ四と少なく・・」
とあるが、その4つの内の2つの八幡社がこの地の土谷さんと深く関わっている。すなわ
ち市辺田八幡神社の神官には、系図によれば、寛文元年(1661年)より土谷さんがな
っており、菅生八幡神社については、11世紀に神官の神田さんのご先祖の家来として付
いて来た土谷さんの先祖が、この神社の祭りの時には代々重要な役割を担ってきたという。
また、神社の鳥居の両側には土谷さんの家が神社を守るかのように建っている。菅生の土
谷さんの中には遠く離れているにも関わらず、蓮城寺の檀家である家があり、「炭焼小五
郎伝説=般若姫伝説」との関係で周防の土谷さんとつながらないかなどに取り組んでみた
い。



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     電話・FAX:093−617−1774
     電子メール :shige@tsuchiya.com       2004.6.20  土谷重幸