以下、ある県の「土屋会」発行の書物の中の間違いについて指摘した私の手紙を
紹介します。
後日、私のこの手紙への返事が届き、封筒の宛名には「土谷重幸」様と書かれていた
のですが、手紙の中身には、その丁寧な文章にも関わらず、「土屋重幸」殿と書かれて
おりました。(^^;
この手紙への返事(封筒)
この手紙への返事(本文)
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○○土屋会会長 土屋○○ 様
始めまして。私は福岡県北九州市に住む土谷重幸と申します。突然、このような手紙を
出させていただきます失礼をお許しください。
実は、つい最近、私の知り合いから、「名族土屋氏 その系譜と事績」(○○土屋
会編、○○出版会発行)という書物を贈られ、読んだばかりのところです。そして、
御書のP.164に紹介されています「算学者 土屋温斉」に関して、今後の再版などの際には
ぜひ訂正をしていただきたく、資料を添えてお願いするものです。
土谷温斎は、本書に書かれていますとおり、「豊後西国東郡大岩屋」の人です。そして
「土屋」ではなく、終生「土谷」を名乗ったことは確実であります。この豊後西国東郡と
いう場所は、全国でも唯一「土谷の地」と呼べる場所でもあります。と申しますのも、
豊後高田市、真玉町、香々地町の1市2町には、現在でも200軒を越える「土谷」さんが
おられ、「土屋」さんはわずかに1軒、しかもそのかたは戦後この地に来られたという
土地柄だからです。土谷温斎は、この土谷の地で生まれ育った人です。同封の資料@、
およびAに温斎関係の文書などがありますので、ご覧になられてください。
資料Bは大分県立歴史博物館の学芸員である櫻井氏と平川氏による、豊後国東地方の
土谷に関する史料を分析したレポートです。これをお読みいただくとわかりますが、この
地の土谷さんは500年以上に渡って続く一族で、そのルーツは相模にあるという言い伝えを
持つものの、この5世紀の間、相模の土屋氏との間に何らかの行き来ややりとりがあった
という形跡は全く見つかっておらず、現在のところ、少なくとも500年間は土屋氏からは
独立した一族であったと思われます。そうしたことからも、温斎を土屋氏の一人として
紹介するのは、確実に関東の土屋氏とのつながりが証明されてからにしていただきたい
というのが私の気持ちです。そして、その証明を切に求めている一人が私であることも
申し添えておきたいと思います。
さて、資料@にはその他の文章も付けておりますが、それに関連して、資料C、および
Dを同封させていただいています。以下、同封の資料の概要です。
@:「土谷さんメール新聞第9号」 p.1〜p.9
「土谷さんメール新聞第4号」 p.1〜p.3
「土谷さんメール新聞第12号」 p.1〜p.3、p.10〜p.12
A:土谷温斎の著書の一部のコピー
B:大分県立歴史博物館研究紀要(2000年3月発行)の一部のコピー
C:「逸史」「野史」「甲斐国志」「日本地名学」からの一部のコピー、および
長野県北佐久郡軽井沢町の土屋栄吉さん宅に伝わる位牌および過去誌に関する
記述のコピー
D:パソコンソフト「写録宝夢巣」(日本ソフト販売(株))および「日本地名索引」
((株)アボック出版局)による出力物のコピー
となっています。
1)はじめに
私の「家系図」に対する考え方は、資料Bの p.48 にある、櫻井氏の「これら由緒類
の記述は、いわば伝承の域に所在するものである。しかし、伝承の中には何らかの形で
史実が反映されており、・・・」という言葉に近いものがあります。ですから、各家に
伝わる家系図や由緒などを参考にするものの、それだけでは歴史的事実としては認める
ことはできないという姿勢を取っています。
今回の土谷温斎に限らず、いくつかの事例において、ちょっとした思い違いや誤解、
あるいは勝手な判断により、「土谷」が「土屋」に同化されたり混同されていたりされた
と考えられるものがあり、事実は事実として正していくことも必要ではないかと考え、
私なりに細々とした活動を続けております。
私の中では、全国の土谷さんが全て同じルーツを持つかどうかは別として、
(1)土屋氏とは全く独立して起こった土谷氏がいたに違いない。
(2)「土屋」から分かれた「土谷」もあったに違いない。
(3)歴史の中で、一族を守るために「土谷」から「土屋」に改姓したケースも
あっただろう。
(4)「土屋」と異なるルーツを持つ「土谷」の中には、歴史の流れの中で、一族の
ためになると判断し、「土屋」を先祖に持つという作り話を伝えたケースもあった
だろう。
などといったことを念頭に置きながら、調査を進めております。
2)金沢の土谷さん
御書の p.158 に紹介されています、「土屋又三郎」について、その先祖が、
「土屋」であるか「土谷」であるかについての疑問があります。この件については、
同封の資料@のうち、メール新聞第4号および第12号に記してあります。
3)甲斐の土谷さん
この件については、資料@のメール新聞第9号の p.6〜12 および、第12号の
p.10〜12 に書いてあり、関連資料としてCおよびDを同封しています。
なお、資料Dについては、以下に説明を補足させていただきます。
電話帳ソフトによる全国の分布を見ると、「土谷」さんと「土屋」さんは、異なる
分布をしていることがわかります。同封した資料では、実際の件数ではなく各都道
府県の人口に対する比率で表していますが、こうすることで、近年の東京や大阪などの
都市部に集中したことによる誤差を緩和できます。
また、「谷」という漢字は、音読みが「こく」、訓読みが「たに」であり、「や」と
いう読みは、おそらく中世の関東地方で、日本独自の読みとして登場したものだと
されています。このことは「土谷」という名字に「つちや」という読みを当てた
ことと重要なつながりがあると考えていますし、「土谷」について「つちたに」と
読む名字が存在することと合わせて、「土谷」のルーツを探る上で、また、「土屋」と
混同されることになった理由や時期を解明する上でも重要なポイントであると考えて
います。これに関連した資料として、2枚目以降に地名の分布図を添えています。
なお、「関東地名物語」(草風館:山田秀三著)という書物で「や、やち、やと、
やつ」などの地名についての考察がなされており、それに関連して、資料Dの5枚目を
添付させていただいていますが、今回の本筋とは関係がありません。
また、資料Cの7,8枚目は鏡味完二氏による「日本地名学(上)」の中の沢地名と
谷地名などに関する記述部分をコピーしたものです。資料Dの2〜4枚目の補足説明
となる資料です。
資料Dの4枚目は、資料@の p.10 からの記述にある「甲斐国志」の中の「土谷
式部丞」と書かれた大永四年(1524)の棟札に関連して、「沢地名」文化圏の中の
「谷地名」の位置関係を示したものです。特に、埼玉県西南部、山梨県東北部、東京都
西部が境を接する辺りでは、「沢地名」文化圏の中に、「谷(や)地名」に侵食されずに
残った「谷(たに)地名」文化圏があり、また、長野県南東部が山梨県と接する辺り
にも弱く見られるように存在していることがわかります。その2地点からほぼ等距離に
ある箇所が、その棟札が発見された旧島上条村にあたることを示しています。そして
その旧島上条村近くには、わずかに「谷(や)地名」が入り込んでいるのです。
まだまだ多くの調査が必要ですが、一つの仮説として、山梨県のこの地域付近には
「土谷(つちたに)」という名字がかつて存在し、その後、「谷」を「や」と読む
文化圏を背景とした人々が多数入り込んでくる中で、「土谷」を「つちや」と読むように
なり、長い年月の後に「土谷」が「土屋」に同化されていった歴史があったのでは
なかっただろうかと考えています。そして、「土谷式部丞」と書かれた大永四年
(1524)の棟札や、「野史」における大蔵十兵衛(大久保長安)が「土谷」という
名字を賜ったという記述、「逸史」における「土谷昌恒」という記述などが、わずかに
残って伝わってくる背景になったのではなかったかという思いがするのです。
さらに、「土谷(つちたに)」は、土屋氏とは異なったルーツを持っていたのでは
ないかと考えるのです。
これは、資料Bの p.47〜51 の記述、特に p.50 の中ほどにある「・・・土谷家
が「金師」とされた鉱業技術者であるとするならば、そこにはかつて井上鋭夫氏が
論じられた真宗と中世鉱業との結び付きが想定される。」という櫻井氏の記述につながる
ものでもあり、中世の甲斐における鉱山開発、さらに想像を膨らませるならば、加賀に
おける一向一揆に加担した、かの地の土谷あるいは土屋の先祖も、真宗というキーで
つながってくるとも考えるのです。全国の多くの土谷さんの中に、「九曜紋」や「三つ石
畳紋」など、土屋氏の子孫の多くが用いる家紋を用いるケースがとても少ないことも、
私にとってはこの仮説を逆に証明する間接証拠ではないかと考えるのです。
豊後は、宇佐神宮が長年にわたり平家とのつながりが深かったこともあり、源頼朝に
よる「関東御分国」の一国として、唯一「関東およびその周辺以外の」国として指定され、
多くの関東武士が派遣された地でもあります。そこでも、「土谷(つちたに)」が
「土谷(つちや)」と呼ばれるようになり、「土屋」をルーツに持つとすることが、
その時代を生き延びる智恵であった可能性がなかっただろうかと考えたりもするのです。
以上、大変に長くなってしまいましたが、今の時点で、はっきりと証明されています
「土谷温斎」に関しての今後の訂正に関しては、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
また、甲斐とその周辺地域における「土谷」に関する史料などに何か気づかれるような
ことがございましたら、ぜひご一報いただければ幸いです。どうぞよろしくご協力くだ
さいますようお願いします。
連絡先: 〒807−1264 北九州市八幡西区星ヶ丘2−14−13
電話・FAX:093−617−1774
電子メール :shige@tsuchiya.com 2002.12.15 土谷重幸
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